(四) 因果の縁を断つ
物事には原因があって結果があると同じように人間の万事も因果の繰り返しと循環であります。
来るしみも楽しみも因果によって招いたものであり、喜びも哀しみも因果によって顕れた現象であります。
「因果は懼(おそ)ろしい」と思い込んでいる人も多かろうと存じますが、決して恐ろしい不吉だけが因果ではなく、善も悪も、正も邪も、吉も凶もみな因果の中に含まれています。
恐ろしい怕(こわ)いと思うのは、良くない結果だけが強烈に胸を打つか、悪い事ばかりをしている人が多いからです。
起因に基づいて結果があるのは天道の規律であり、大自然の法則であります。
火のない所には煙が立たず、原因のない結果は絶対にありません。
賢い人、愚かな人、聡明な人、白痴な人、幸運、不運の原因はすべて前世に善行か悪徳を為したかによるものであります。
こうして私達の現在の行いや振る舞いの一挙一動は、やがて将来か来世の結果に歴然と現れてきますから、ほんとうに心して注意しつつ行為しなければなりません。
そして私達一人一人の小さな行いでも大きく社会の上に現れてくるものです。
現在、世界中至る所に争乱と災難が起こりつつ有るのも過去の人類が犯した罪悪、宿業の報復であります。
人心が悪ければ悪い程、災難も重く惨(すさ)ま軸成るのは当然のことです。
老〇(ラウム)から与えられた霊魂をすっかり汚く穢(よご)してしまい、平気で悪智、奸計(かんけい)を弄(もてあそ)んで他人を騙(だま)したり陥(おとし)入れたりしています。
殺害をしたり姦淫(かんいん)をしたり放火をしたり、螻蛄(けら)以下の破廉恥(はれんち)な行為をしたりすると、その結果は餓鬼道(がきどう)、畜生道(ちくしょうどう)に陥(お)ち、亦は「象天界」の苦しい人生の酷(むご)い応酬をうけなくてはなりません。
世を撹乱(こうらん)し地球を亡ぼすような罪悪を犯せば万年に霊の苦しみを受け続け、永久に浮かばれません。
一切の罪を消滅するには道を求め、道を得て、世を救い、人類を道に目覚めさせるべきです。
この道が天道であります。
昔の聖人行者は得道する為に難行苦行をした訳です。
宗教に依り修めて到達する目的も天道であります。
元より天道と一般宗教は本質的に異なっています。
それは天命があるのとないのとで大きく区別されます。
宗教の法によって到達し得る究極の天界は「気天界」だけであります。
この境界は依然 縁起縁滅があります。
暫定的に気天神としての位に居ても期限が尽きれば亦、人間として転生しなければなりません。
勿論 帰天神に昇進するにも、それ相応の善果徳行が必要です。
釈迦は気天を滅道(楽の因果)と云い、人間界地獄界を苦集(苦の因果)と申されました。
たとい楽な因果であっても暫定的であり、有限的であります。
天道によって到達する境界は「理天界」であります。
理天は無苦集、無滅道であり、無際限、無期限の極楽天国であります。
天命は絶対的至上の命令です。
この秘密蔵を得ることによって永遠の救いが与えられます。
皮相な学問だけではなく、聖人の心を心とする真髄を得るのです。
この法は微妙の法門ですが、決して無根拠のものではなく、真実に瞭(はっき)りと仏堂の前で授記して頂けます。
釈迦は迦葉に正法眼蔵の別伝を授け、孔子は曽子に一貫至善の心法を伝え、達摩は慧可に直指人心の妙法を与えました。
こ密宝は乃ち天道の真伝であります。
この心法を授けられることによって総ての苦悩と災厄が除かれます。
畜生、動物、人間、地獄、悪鬼、亡者及び気天神をひっくるめた因果の輪廻(サンサーラ)を根こそぎ解脱して下さいます。
霊がこの苦海の世界に輪廻、循環してから六万年余り、数え切れないほど、幾千世転輪の辛酸を餘儀(よぎ)なくされています。
天道の法を得ることによって、霊の籍が理天に移されるだけではなく、一旦、不祥の災厄が起こった時には、仙仏をお迎えして護庇(ごひ)して頂けます。
やがて寿命が尽きた暁には、一歩にして久遠の楽しい理天に帰ることができます。
実に因果の起滅を断ち切る法は昔からの道、即ち天道のみであります。
続く