真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

釈迦略伝~(三)出家 (四)苦行~1・2

2023-05-06 18:39:34 | 釈迦略伝・釈迦仏説因果経・観音菩薩伝・慈航渡世問答・達磨大師伝

「道」というのは宇宙の「真理」のことを名づけたものです。「理」とも言います。2つの字をあわせて「道理」ともいいます。この「道」を、天に関して「天理」といい、地に関して「地理」といい、物に関して「物理」といい、人に関しては「性理」「良心」「本性」といいます。もし、天に「理」がなければ、日月は光を失い、地に「理」がなければ、万物は生ずることがなく、もちろん四季の区別もなくなります。

人に「性理」がなければ、この体を主宰するものがなく、生命も存在しないことになります。これから解るように、「道」が天地万物の根本で、人にとっては「本性・霊」は自分自身の主人公です。もちろんSpiritualの霊魂 という本質的な意味も同じ意味です。

「道」はまた「路」(軌道)ともいえます。それは、人の霊性は一本の正しい路を通って人の身体の入口(玄関)から入り(赤ちゃんが生まれたときオギャ~と泣いた瞬間)、人に生命を与え、生きている間、玄関(松果体との関係は未整理)に留まって人の行動を指揮して、寿命を終えて身体を離れるとき、もと来た正しい路を戻って天(唯一絶対創造主の懐)に帰るべきですが、役目を忘れ迷ってこの路を見失い、長い苦しみの転生を経験してきました。

今、「道」が公開され宇宙(天)や地底(地)の限りない支援が得られ、壮大な創造主の恩恵に浴しています。この機会に古い魂の角質を捨て本性(霊)を輝かして、神としての存在を実践して役目を果たし、縁に従い正しい「道」を得て、ふるさとに還る旅路を歩んでいます。まさに過去の聖人、お釈迦様やキリストがたどった同じ旅路をです。

 大英博物館所蔵 釈迦牟尼佛画像

(三)出家

悉達多太子が降臨されたときのことですが、父君浄飯王は阿私陀(あしだ)という一人の仙人を招いて太子の相を見てもらいました。 

阿私陀仙人は太子の相を見て歎きながら「太子の尊容は偉大です。

その実には三十二相が具わり凡人ではありません。

もし出家しなければ、必ず転輪聖王となり、五つの天竺(てんじく)を統括することでしょう。

五天竺というのは東・西・南・北・中央の五印度(全印度)を指します。

もし出家すれば、必ず三界(天・地・人)の導師となられるでしょう。

悲しいかな私はすでに老いてしまい太子の説法を拝聞することができないのが残念です。 

浄飯王は阿私陀仙人の言葉を一通り聞かれ、大変喜ばれる一方、また悲しまれました。

そして〝どうか、太子が私を離れて出家することなく、転輪聖王となるように“ と心ひそかに願い、あらゆる方法を考えて太子の出家を妨げました。

太子には世間のあらゆる楽しみを与え満足させようと思い、それ以外のことには目もくれないよう三殿を建てて太子に与え、多くの宮女と召使をはべらせました。 

浄飯王は太子を一種の真情で愛し養育して、一国の富が傾くほどのことがあっても惜しみませんでした。 

太子が17歳になったとき、浄飯王は善覚王(ぜんかくおう)の王女耶輪陀羅(あしゅだら)を妃に迎え入れ多くの美姫をよんで毎日歌舞や管弦をして人間の快楽を尽くさせました。

しかし、太子の心中は人間の生・老・病・死の無常を深く悟り、求道の念は日とともに増し、このような宮中の楽しみも太子の心を動かすことは不可能でした。

ある日、太子が父君の面前に参って、出家しようとする強い志を詳しく申し上げました。

するとこの話を聞いた浄飯王は驚きながら「汝がもし成し、一切の衆生を救おうとするなら、まず父のこの苦悩を救うべきではないか、一刻も早く位を汝に譲って梵行を修めることに勤しみたいと思う、それが父の宿願である。」と申しました。

しかし、父君のこのような話は太子の出家の志を動かすことはできませんでした。   

太子が19歳になったときに、耶輪陀羅妃が一子を生みました。羅喉羅(らごら)と名づけられました。

一般国民はみな王孫の誕生を喜びました.しかし太子はひそかに〝一子が生まれたので父王の命にそむいて出家しても、多少ながら父君の憂いを減らすことができるであろう”と考えました。

そして遂に決心し二月八日の夜ふけ人が寝静まったころ、宮中を出て馬車に乗り迦比羅城を離れ去ってゆきました。

(四)苦行~1

悉達多太子は迦比羅城を離れて17里あまりを走り、藍摩市(らんまし)につきました。そしてさらにこれより東に進み、阿跋彌河(あばみがわ)の深い森林の中に入り、四方静寂なところを一箇所選んで修道の場所に当てました。

この時は、髪や髭をそり、袈裟を着て宝服を脱ぎ、車夫に持たせ馬車と共に城に帰らせ父王に奉還することにしました。

そうして「人生は早かれ遅かれ離別するものであって、いずこに一緒に居住することができましょうか」との口信をお伝えしました。

それからまた東に向かって進み、跋迦仙(ばがやせん)を訪ねました。

跋迦仙は婆羅門(ばらもん)の一人の苦行者であって、苦行しなければ解脱できないと説いていました。

太子が跋迦仙が苦行されるのを見て、跋迦仙に[汝はなぜこのように苦修するのですか」と問いました。

すると跋迦仙は[欲によって天に生是利、来世天上の楽果[楽が]を得んと欲すれば、苦修せざるを得ざるを得ない、それのみなり」と答えました。

太子は「汝の求むるところの天上の楽果は亦、究竟にあらず、諸天は楽といえども、福報限りあり、福業尽きれば、また六道輪廻の苦報受けるを知るべし、汝の楽と説くところのものは、究竟苦しみのみなり」と告げて、遂に跋迦仙のところから離れてゆきました。

さて、太子が迦比羅城を離れて後、まもなく父王はことの詳細を知り万分の驚きをなして、直ちに臣下を派遣し四方を探させました。

ちょうど慌しく探し回っている時、車夫が馬車を率いて王城に帰ってきました。

車夫は出城の経過と太子の口信をいちいち浄飯王に申し上げました。

そこで浄飯王は二人の大臣と師夫を派遣し、太子を迎えて帰るようにしました。

この一行が跋迦仙のところに着きますと、跋迦仙は「太子はすでにここを離れて北の方にいかれました。」と申しました。

一行はまた北の方に向かって追っていきますと、樹下に座しておられる太子を発見しました。

一同は大喜びして、父君が如何に太子を思って心配しておられるかを告げて速やかに城に帰るようにすすめました。

(四)苦行―その2

太子はこの話を聞き、堅く謝絶しました。

そして遂にこれらの臣下を捨てて阿羅邏迦藍仙人(あららからんせんにん)のところに去って行きました。

この時、これらの臣下は、太子の決心を知り、挽回できないものと分かりました。

そこで相談し、従う人の中より阿若憍陳如(あにゃぎょうちんにょ)・跋提(ばだい)・婆沙波(ばしゃば)・摩訶男(まかなん)・阿(あしつ)の五人を選び、お供として随従し、そのほかの臣下はみな迦比羅城に帰って行きました。

太子はこれら五人を伴い恒川(がんじすがわ)を渡り、摩訶陀国に入って王舎城を過ぎようとしました。

王舎城の人々が山のように集まって悉達多太子を見に来ました。

この時、頻婆沙羅王(げんばしゃらおう)が城の楼上より遠く人海の様子をご覧になり、悉達多太子が来られるのを知って、臣下に言いつけて御駕をやめさせ槃茶婆山(はんだばさん)に迎えました。

頻婆沙羅王は自ら迎えに出られ太子にお会いしました。

そして「貴下は何故出家したのか、もし早く即位することができない故に出家したのであれば、わが国の半分を汝に与えるので統治を請う。

もし何か不足することがあるならば、我まさに全国を汝に捧げ、我は退居し臣下として仕えることを願う。

なおまた不足ならば、我は我が大兵をして四隣を侵略して汝の統治に帰させましょう。」と申しました。

すると太子は感謝しながら「我が生老病死の四苦を断ち、無上の解脱を得るに有るなり。いずくんぞ世間の五欲を求めて出家せしや、唯、王に願わくば仁をもって汝の国を治め庶民を虐待すべからざるなり」と申しました。

頻婆沙羅王は太子の話を聞き終わり、高潔なる心を発した太子に心打たれ、地に跪き「貴下が若し解脱を得られるならば、請い願わくば最初に我を度し給え」と願い出ました。

太子は王の御厚意に感謝しつつ、また前進しました。

そして尼連禅河を渡り、城北の弥楼山「見る戦」に向かい、優楼頻羅迦葉(うるびんらかしょう)・那提迦葉(なだいかしょう)・迦耶迦葉(がやかしょう)の三師を訪ねてゆきました。

太子が三師の説くところの法を聞き終わり、真道ではないことがわかりました。

そして後にまた弥楼山の麓にある阿羅邏迦藍及び鬱陀羅摩(うつだらま)の二人の仙人を訪ねましたが、太子はまた二人の仙人の説くところの法も解脱が不可能であることを悟りました。

それから解脱は唯自修するにあると決心して尼連禅河の東岸の前にある正覚山上の一箇所を占め、修道の場所として父王から送ってくる食料を謝絶し、そこで六年間の苦行を続けられたのであります。

続く

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