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八月の鯨ノベライズ(後)

2012-02-24 16:32:59 | 日本語言語文化

 ポーチでは、リビーがひとり風に顔を向けていた。ティシャとセーラの明るい笑い声がポーチにも響いてきた。
 「ふたりですっかりはしゃいでるのね」おいてきぼりのリビーはちょっとおもしろくない。
 「楽しく笑うのが一番よ」ティシャはリビーのことばにもおかまいなしだ。

 居間に戻ったリビーに、ティシャはブルーベリーをすすめた。「リビー、あなたはひごとに若返っていくわ。ブルーベリーいかが」
 「ありがとう」リビーはすなおにベリーをつまんだ。
 「歩き回ったけど、その割りに摘めなかった。昔はもっととれたのに」と、ティシャは昔に比べて収穫が減ってきたブルーベリーの木々についてぼやいた。
 リビーは「尼僧たちのせいよ」と断定した。
 「尼僧ですって」ティシャは聞きとがめる。
 「まるでペンギンみたいに荒らし回るのよ、彼女たち」リビーは尼僧にも厳しい。

 「ねえ、悲しいお知らせがあるの」ティシャはあらたまって、言い出した。
 「なによ、ティシャ」リビーがたずねる。
 「ゆうべ、ヒルダが亡くなったの。だから、マラノフさん、住む場所がなくなっちゃったってわけ」ティシャは島の動静を知らせる。
 「次ぎに幸運の女性になるのは、誰かしらね?」リビーは、マラノフが次ぎにまた、どこかの家に入り込むだろうと考えている。
 「さあね、ご本人にもまだ次のあてはないらしいけど」
 「ヒルダはまだ若かったのに」セーラはヒルダを悼んだ。
 「ヒルダは83歳だった。もう寿命よ」リビーは冷静だ。
 「ブリッジの好敵手を失って残念だわ」ティシャには遊び仲間をうしなったことが痛手だ。
 ティシャの島民情報はつづく。「そうそう、あの人ついに補聴器をつけたの」
 「あの人って?」
 「アリスよ。急にブリッジが強くなったと思ったら、耳が聞こえるおかげだったってわけ」

 ティシャのうわさ話の種になっているとも知らないマラノフは、つり上げた魚をビクに入れ、まあまあな釣果に満足した。マラノフは、セーラの家へ向かって歩き始めた。釣った魚をおすそわけすると約束したことを果たさなければならない。

 ティシャのうわさ話は続いていた。「チャーリー、知ってるでしょ。若いウェートレスと結婚したのよ、あの人」
 「まさか」
 「ほんとよ」
 「恥知らずなことね。でも無理ないかも。亡くなった奥さん、品評会に出したら、ビリ確実な人だったもの」リビーの毒舌も相変わらず続いている。
 「リビー、あんたの冗談はきついわね。でも、チャーリー、奥さんの墓参りはちゃんとやってるみたいね」

 台所へお茶のおかわりを取りにいくティシャにセーラが気遣う。「ティシャ、あなたこそ関節炎の調子はどうなの」
 「相変わらずよ。出たりひっこんだり。私の若い主治医先生が言うのよ。長生きしたタタリだって」ティシャはお茶を入れ直しながら答える。
 リビーの辛辣発言がつづいた。「あんたのその先生は口の利き方が最低ね」
 「でも、すごくかわいい若い先生だから、何言われても許しちゃう」

 ティシャは窓の外にマラノフを見つけた。「あらま、マラノフ氏だわ」
 「ティシャ、中へお招きして」
 セーラのことばに、ティシャはドアをあけた。
 「まあ、マラノフさん、どうぞお入りになって」ヒルダが死んだうわさ話をしていたことなどおくびにも出さないで、ティシャは愛想良く挨拶する。
 「タウティさん、驚きましたな、朝、浜でお会いしたときよりも美しい」マラノフのお世辞もますます調子がいい。
 「まあ、私の遺言がますます楽しみになるわね。さ、こちらへ」
 「こんな魚さしあげても、生臭くてご迷惑かと思いますが」マラノフは約束の魚を差し出した。
 「喜んでいただきます。ティシャ、冷蔵庫へいれておいて」
 「ええ、セーラ」ティシャはマラノフから魚を受け取って、台所へ行った。

 「お茶をいかがですか」
 「どうもありがとう、いただきます」
 「リビー、マラノフさんよ」居間にいるリビーにセーラが紹介すると、マラノフは丁寧に挨拶をした。「また、お目にかかれて、光栄です。ストロング夫人」
 「礼儀を知る最後の紳士だわ」セーラはマラノフのものごしが気に入っている。
 「みなさんと楽しいひとときをすごせること、うれしく存じます」マラノフは、椅子をすすめられて、腰をおろした。
 ティシャが新しいお茶を持ってきた。「さ、お茶よ。お砂糖とクリームは?」
 「いいや、けっこうです」
 「よくいらっしゃいました」セーラのことばにマラノフは「ありがとう、実に楽しい日です。魚もよく釣れたし、このような楽しい集まりに加えていただいて、、、」

 そこへ、一仕事おえたジョシュアがけたたましく入ってきた。
 さっそく丁寧な挨拶を、と立ち上がったマラノフに、ジョシュアは「挨拶は抜きで願います、マラノフさん。みなさんとごいっしょしたいところですが、キニー夫人の所へ行くのでね。ルーズベルト夫人と同じ修理好きな方でさ。ところで、見晴らし窓のことは考えてもらえましたか」
 セーラが答える前にリビーは先回りして答えた。「いろいろかんがえたけれど、窓はいらないわ」
 ジョシュアは残念そうに「今なら材木も安いのに」と、出ていった。

 「窓を作らないなんて、残念だわ。ここから月が眺められるのに」ティシャの言葉にマラノフも同調する。
 「月をながめて夕食なんて、すばらしいですな」
 「そうね、残念ね。今夜はたしか、満月よ」と、ティシャ。
 「わたしの所からじゃ、月も見えません」
 マラノフのことばに、セーラが申し出た。「マラノフさん、お魚を下ろしてくださるなら、夕食と月の光をさしあげますわ」
 「身に余るおことばです。喜んで魚を下ろしますよ」マラノフは大喜びだ。
 「私は魚、食べませんよ」リビーは不機嫌だ。「骨があるからね。昔から骨のある魚は苦手だから」
 「そうですね、そのとおり、骨はやっかいなものです」マラノフはリビーの気むずかしさにまだ馴れていない。

 「お茶、もう一杯いかが、マラノフさん」
 「ありがとう、いただきます」
 セーラはお茶をつぎながら「このたびはご愁傷様でした」と、マラノフにお悔やみを言う。
 「悲しい話はやめましょう」マラノフは、ヒルダの死にふれてほしくないようで、話題を変えようとした。
 「タウティさん、今も車の運転をしてるんですか?モデルAに乗っているんでしたね」
 「そうね、あの車どうしたの?」セーラがたずねると、ティシャはつらそうに「ガレージにおいてあるわ」と答えた。ティシャも話題を変えたそうだ。
 それをゆるさず、リビーが「何があったの?」と、追求する。
 「よその人には絶対に話さないでね。実はね」ティシャが話し出した。「長年運転してきて、ずっと無事故だったの。なのに、買物してるとき、バックでぶつけちゃったの。軽くぶつけただけだったのに」
 「免許取り上げられたのね」リビーが察する。
 「一時停止ってだけよ」
 「それじゃ、まだ望みはありますね」マラノフが言った。
 「ええ、そうね。半年たったら、もう一度試験を受けなおせって言われたわ。六ヶ月先よ。ずいぶん先じゃないの」ティシャは悔しさがこみあげてきて、涙ぐんだ。家からここまで歩いてきたのも、ブルーベリーを摘むということを口実にはしたけれど、実のところ免許を取り上げられるような年齢になったことを突きつけられてのことだったのだ。
 「まあ、そのくらいの期間は、気分転換と思えば、、、」マラノフのことばもなぐさめにはならない。
 マラノフは、口先のうまさを発揮してティシャを元気づけようとする。「あなたの姿をみれば、車はみな止まりますよ。あなたが親指をあげて立っていれば、魅力的で神秘的で、運転者はみな挑発されます」
 「ま、マラノフさん、冗談がおじょうずね」ようやくティシャの機嫌もなおった。

 「正午の汽笛がきこえるわ、もう帰らないと」ティシャが腰をあげた。
 「お宅へは通り道ですから、ごいっしょしましょう」マラノフも立ち上がる。
 「ええ、私の最後のナイトだわ。すてきね」ティシャはまんざらでもなさそうだ。
 「失礼しますストロング夫人」マラノフは最後まで紳士的に挨拶をする。
 「ええ、良い一日をね」リビーはそっけない。
 「5時においでくださいね、マラノフさん」セーラが招待を確認すると「ええ、伺います。ありがとう」マラノフはティシャと居間から出ていった。

 ポーチの風を冷たく感じたティシャが寒がると、マラノフは「昔なら、マントを着せかけるところですが」と、いいながら、自分のジャケットをティシャに着せた。
 「ウォルター卿みたいだわね」ティシャは遠慮しながらもジャケットを羽織り、マラノフにエスコートされて帰っていった。エリザベス一世にマントを差し出したウォルター卿になぞらえられたマラノフは、せいいっぱいの紳士ぶりを発揮して、アジサイの小径を下っていった。

 午後の庭を歩きながら、「もうしばらく公園へ行ってないわ」リビーが言い出した。
 「ここだって、公園みたいよ」セーラのことばに「でも、白鳥がいないわ。マシューと私、よく公園のベンチにすわったわ」と、リビーは昔をなつかしむ。
 「フィリップはだめだったわ。長く椅子にすわってられない人だった」セーラも夫との短かった結婚生活を思い出す。
 「せっかちなひとだったわ」

 昼下がりの光の中を、ふたりは海辺へ出ていく。
 「白鳥はつがいが生涯添い遂げるの」リビーがセーラに教えた。
 「ほんと?」
 「あんたも、フィリップと生涯いっしょだと思ってるんでしょ」
 「もちろんよ」セーラは思い出のなかのフィリップと添い遂げているのだ。
 「でも、一人で残っちゃって、人生ままならないものね」
 「明日はフィリップと私の結婚記念日よ」
 「マシューと私の結婚記念日はバレンタインデーよ」
 浜辺に腰掛けたふたりの思いは再び、昔へと戻っていく。
 「あなたとマシューの式で、私、介添え役つとめたわ」
 「あんた、私のドレスのすそを踏んづけたわね」

 「セーラ、あんたと私たち夫婦とで、西部を旅行したことあったわね。前の大戦が終わったとき」
 「ええ、フィリップが戦死して1年後よ」
 「そうね、私とマシュー、あんたを元気づけたかった。でも、あんたは自分のカラに閉じこもって、ひとりで寂しそうにしていた」
 「あなたが、マシューと仲たがいするから、心配してたのよ」
 「それはおもいすごしだったわね、セーラ。夫婦で年中ベタベタする必要なんかないのよ」

 家に戻ったリビーを気遣ってセーラが昼寝をすすめた。「マラノフさんが夕方みえるまで、休んでいた方がいいわ」
 「あの人、私のお客じゃないわ」リビーは、セーラがマラノフを招待したことが気に入らないのだ。
 「ふたりのお客よ」
 「私は招待していないし、魚も食べないわ」
 「あなたのはボークチョップにするから」
 リビーは部屋に入ってしまった。

 セーラはディナーに着るドレスを選びはじめた。夕食のためにドレスアップするなんて、久しぶりのことだ。
 セーラは小箱から手紙の束を取り出して、物思いにふける。
 リビーもベッドに横たわったまま、昼寝をする気分にはならなかった。リビーもまた小箱を出して、夫との思い出をたどる。目が見えないリビーには、もう夫の手紙を読むこともできない。リビーは夫が記念に同封してくれた鳥の羽をほおにあて、情熱を共有した、夫婦の若い頃の思い出にひたるのだった。

 夕方、セーラはディナーの準備に忙しかった。一番上等の食器セットを用意し、新しいテーブルクロスの上に並べる。
 「リビー、あと1時間でお客様がみえるのに、まだ着替えてないの。花模様のシフォンはどうかしら」セーラはテーブルセットに余念がない。
 「着替える必要なんかないわ。甘い顔見せると、あの人、一生ここに居着くわよ。せかせかして、いつも忙しそうね、セーラ。ティシャを見習ったらどう」
 「どういう意味?」
 「ティシャは、運転免許をあきらめたのよ」
 「まさか、そんなこと」
 「もう運転しなくてすむようにね」
 「そんな馬鹿な」
 「あんたも、目が悪くなってみれば、こういう気持ちがわかるわ。全部あきらめるって気分が」
 「いい加減なこと言って、リビーったら」
 「私は今、耳が敏感ですからね」
 「もう、いいわ、それより、着替えをしてちょうだい」
 「あんな人のために、着替えなんかするもんですか」
 「どうしてよ」
 「他人だわ」
 「でも、お客よ」
 「この家にあんな男必要ないわ」リビーは不満を隠さない。
 さすがのセーラもついに口にした。「ここは私が相続した家よ。だれを招待しようと、私の好きでしょ」
 セーラの思いがけない反撃に、リビーも言ってしまう。「あんたが未亡人になったあと、15年間も世話した恩を忘れないでよ」
 セーラも負けずにことばをかえした。「そう言うなら、おあいこよ。私があなたを世話してから15年。15年と15年だもの」セーラは台所へ向かう。

 「もどりなさいよ、セーラ、戻って」リビーの命令に、はじめてセーラは従わなかった。
 台所のオーブンでは、マフィンが黒こげになっていた。「まあ、たいへん、あなたとしゃべっていたせいで、マフィンを焦がしたわ」セーラはいつになく腹をたてた。
 リビーも言い過ぎたことを後悔した。「やめましょう、ケンカなんて。マフィンのことはもういいわ」
 「着替えてよ、リビー。私たちは姉妹だけれど、同じじゃない。まるで違っているのよ」
 「セーラ、私たちは同じ頑固者の血筋なのよ。でも、もう残り時間はわずかだわ」

 海辺を夕焼けが染め出した。マラノフは正装して、庭の花を摘んでいる。レディへのおみやげだ。

 セーラに花を差し出すマラノフ。「まあ、すてきな色の組み合わせね」
 「では、さっそく魚をさばきましょう。料理の腕が落ちていないといいけど」マラノフはエプロンをかけて、料理をはじめた。
 「大丈夫よ」セーラがうけあう。
 「いや、わからないですよ」

 セーラは、マラノフに魚料理をまかせて着替えを始めた。髪をととのえ、顔にパフをはたく。心ときめく思いで鏡に向かうなんて、久しぶりのことだ。
 おめかしして居間に出てきたセーラに、マラノフは得意の弁舌をふるう。「美しいです。とてもすばらしい」

 セーラとマラノフは、ポーチから海に沈む夕陽をながめた。
 「なんてすばらしいんだろう。こんな楽しい気分は久しぶりです」
 「よかったわ、退屈なさるんじゃないかと心配していたんですけれど」
 「退屈なんて、とんでもない。どうしてそんなことを」
 「わたしたちは、平凡なつまらない姉妹ですから」
 「そんなことありませんよ」
 「うれしいわ。そうそう、明日の朝、鯨を見に行きませんか」
 「ええ、ぜひ。これまで鯨を見たことはないんです」
 「毎年来るんですよ」
 「ほんとですか」
 夕陽は静かに海のなかへ落ちていった。

 居間のろうそくに火がつけられた。マラノフの作った魚料理、リビーのためのポークチョップがテーブルに並ぶ。
 「夕食よ」セーラの声に、リビーが居間に出てきた。花柄のシフォンドレスを着て、胸を張って歩く。
 マラノフが挨拶し、座ろうとするリビーの椅子をひいてエスコートした。自分で座ろうとするセーラにも、マラノフはすかさず駆け寄って椅子をひいてやる。
 ぎこちない雰囲気のまま、夕食がはじまった。

 マラノフは、ロシアの亡命貴族という身の上話を続けている。これまで、この話を元手にさまざまな家庭を渡り歩き、食事をともにしてきた。
 「冬にセントピーターズバーグに帰ると、大公だった私の伯父が優雅なもてなしをしてくれました。ワイン、ご夫人がたとのワルツ。ドレスのすそが軽やかに床の上をすべる、、、」
 「ほんとに、おいでいただいて、うれしいわ。ロシア王朝の一員をお招きできるなんて、貴重なことだわ」感激するセーラに、マラノフは「大昔に消えた夢です」と言う。
 リビーはいつもの皮肉な調子で「そんなに謙遜することありませんよ」というが、セーラはその調子を気にせず「そうよ、貴族であったことにはかわりないわ」と、マラノフを持ち上げる。
 「なにしろすべて過去のことですから」マラノフは在りし日の栄華を謙遜する調子をくずさない。
 「ティシャが写真のことを言ってましたけど」セーラのことばで、マラノフはポケットから母親の写真を取り出す。
 「すみません、リビーさん」見ることができないリビーに遠慮しつつ、セーラに写真を見せた。
 「母です。冬宮殿にいるところ。確か1910年でした」
 見ることができないリビーは「写真は消えるけれど、思い出は残ります」と、強い調子で言う。
 「いや思い出も消えていきますよ」マラノフは寂しそうにつぶやく。
 「私の思い出は消えないわ」むきになるリビー。
 セーラは雰囲気を変えようと「コーヒーをお持ちするわ」と、台所へ立った。

 リビーとマラノフは、きまずい雰囲気で居間のソファにすわった。
 「もうじき労働者祭がきますね。悲しい祭日です。冬への入り口ですから」マラノフが口にする。
 「それで、マラノフさん、どこで冬ごもりをなさるの」
 「そうですね。島から本土へ戻って、アパートでも借りますよ」
 「故郷から遠く離れて住むのね」
 「ええ、冬の寒さはどこも同じです」
 「あなたほどの方なら、冬には南のほうでおすごしになるかと思いましたが」リビーは皮肉をこめていった。
 「生活を切りつめておりますので」マラノフは率直に応じた。
 「実際的な方だったのね」
 「なにはともあれ、生き残ることが先決です」
 「その通りね」

 満月が夜の海を照らしだした。
 「ロシアから亡命してパリへいらっしたの?」コーヒーをすすめて、セーラがマラノフにたずねる。
 「ええ、パリへ」
 「セーラもパリへ行ったことあるじゃないの。刺激的な町だわ」
 「人によって感じ方は違うでしょうね」マラノフにとって、パリはいい思い出ではないらしい。
 「ここは刺激のない町よ」リビーのことばに、マラノフは「でも、本物の喜びがあります。夕陽や月や、明日は鯨も見られる」とことばを返した。
 「でも、パリといえばシャンパンだったわ」セーラも昔をなつかしんだ。
 「シャンパンなんて頭痛のもとよ」リビーはなんにでも文句をつけたがる。
 「パリでは、私たちも少し派手にやって、夢を満たそうとしました。でも、しょせん、一時の輝きにすぎなかった。我々亡命貴族は、滅びてゆくのみです」
 「あなた、まだ滅びてなんか、ないじゃない」リビーの皮肉の調子が上がってきた。
 「ええ、そうです。確かにまだ、ここに生き残っています」
 「お一人で生きてらっしたのは、勇気のいることだったと思うわ」セーラは感服している。
 「そんな、たいしたことじゃありませんでした。多少の意志の力があったから」
 「そう、それが財産なのね」リビーはまた辛辣なことばを準備はじめた。

 「ええ、意志の力が財産です。今でもはっきり覚えています。皇太后陛下が亡くなったとき、我々は喪に服し、母は一週間口もきかずにいました。でも、ある朝私を呼んでこういいました。ニコライ皇太后は逝去されました。私たちはもうおしまいよ。お前はひとりで世の中にでていかなくちゃならないわ。そう言って私にハンカチを手渡しました。母の持つすべての宝石がつつんでありました。母は言いました。必要なとき、この宝石を使いなさい。でも、最後を迎えたときに、その使い方を後悔しないやりかたでお使いなさいってね」
 マラノフはポケットからハンカチを取り出し、中に包まれていた指輪を取り出した。「そして、これが最後に残ったひとつです」
 「まあ、エメラルドね、リビー、さわってごらんなさい」
 マラノフは宝石をリビーの指にさわらせた。
 「エメラルドなの。莫大な価値があるんでしょうね」
 「ええ、死ぬまで使っても使い切れないお金になるでしょう」
 「あなたは幸運な方ね」リビーはマラノフを評していう。
 「ええ、そう思いますよ」マラノフが答えた。

 「えっと、それでこの夏はどこに行くんでしたっけ」リビーが話を戻した。「そうそう、ヒルダのところでした」
 セーラはあわてて「ヒルダさんは、ご不幸で」とリビーに注意する。
 「そうでした、お気の毒でしたわね。お悔やみしますわ、マラノフさん。それで、このあとはどこで」
 「いや、まだ」リビーの皮肉な調子に気づいたマラノフが言う。
 リビーはたたみかけた。「それじゃ、ご忠告申し上げますわ。今すぐつぎの隠れ家を探し始めた方がいいですわ。でも、言っとくけど、ここはあてにしないでくださいね」
 「人生で得た教訓は、期待するなということです、ストロングさん」マラノフがリビーの言いたいことに気づいて答えた。

 「もう遅いわ、私、やすみますからね」リビーは言いたいことを言ってしまうと、自室に戻っていった。「おやすみなさい、マラノフさん」
 礼儀正しいことをモットーにしているマラノフも、さすがに返事を返す気持ちにならなかった。マラノフはだまってドアから出ていった。
 セーラがポーチにいるマラノフを追う。

 「実に非凡な方ですな。お姉さんは。ムダ口はきかない」
 「偏屈だから」セーラは申し訳ない気持ちでいっぱいになって言う。
 「今朝、おじゃましなければよかったんです」
 「そんなこと」
 「いや、ほんとに。カンのいいお姉さんに、私の意図を見抜かれた。これで、明日からまた流浪の身の上です」マラノフは自嘲気味に言った。
 「お気の毒です」セーラには、それ以上のことばがみつからない。
 「いやいや、これまでもよるべない人生をうまく渡ってきました」と、マラノフは答えた。
 「この長い年月、どうやって暮らしていらっしたの」
 「友人をたよりに過ごしてきました」
 「自由な暮らしっていうことかしら、うらやましいわ」
 「はは、あなたはロマンチストですね」
 「人生が長すぎたって思うことは?」
 「なかったですよ」
 「寿命以上に生きたとしても?」
 「終わりがきたときが寿命です」

 夜の海は月光に輝いている。
 マラノフは海を指していった。「月が波間に銀貨をばらまいています。あれは、だれにも使えない宝物です。じゃ、もう行かないと」
 「じゃ、明日の朝、、、」セーラの申し出をマラノフが遮った。「いや、今夜お別れしましょう。またとないすばらしい夜をすごさせていただいた。いつまでも忘れません」
 「また、いつでも喜んでお迎えしますわ」セーラはせいいっぱい申し出た。
 マラノフはセーラの手にキスの挨拶をして戻っていった。「おやすみなさい。鯨とのランデブーを楽しんでください。鯨を待たせちゃだめですよ」

 セーラとリビー、いつにないふたりの間のぎくしゃくとした思いを沈めるように、夜の海は月の光を帯びて時を流していく。

 リビーは苦しい夢にうなされていた。「セーラ、セーラ」夢の中で助けを呼ぶが、セーラには届かない。

 セーラはテーブルに赤と白のバラ二輪を置き、夫の写真を飾った。ワインをあけ、一人静かに記念日を祝うつもりなのだ。
 「46年目ね、フィリップ。46本の赤いバラ、46本の白いバラ、そしてワイン。白は真実、赤は情熱って、いつもあなた、そう言っていたわね。情熱と真実こそ、人生のすべてだわ」
 セーラは宝物の小箱から、夫の写真が入ったロケットを取り出してそっと口づけた。
 「あなたが生きていてくれたなら、、、、リビーをどうしたらいいのかしら。とても気むずかしくなって、マラノフさんにつらく当たったわ。見晴らし窓もいらないって言うし、もう人生は終わったんだって言うのよ。これ以上つきあいきれないわ。あなたが生きていればいいのに」

 セーラは古い蓄音機のハンドルを回し、レコードに針を落とした。思い出の曲が流れる。セーラの思いは46年前、フィリップとの出会いのころに飛んでいく。若いセーラは、古風なヒモ結びのコルセットをつけて、フィリップと会っていた。
 「わたしのコルセットは結び目が多くて複雑よ、、、、あなたは、こう答えた。これじゃ、全部ほどく前に月が沈んでしまう。わたしは言ったわね、ダメよあなた、絶対に全部ほどかせないわ、たとえ、あなたでも。だって、私の神秘がなくなってしまうわ。全部ほどかれたら」情熱の赤いバラをほおにあて、セーラは夫との短く終わった結婚生活の思い出にひたった。

 「セーラ!」リビーの声が、居間に届いた。「セーラ!セーラ!」リビーが自室から飛び出してきた。
 セーラは驚いてレコードの針をもどした。「どうしたのリビー」
 「あなたが、見つからなかったのよ」リビーはセーラの腕にしがみつき「あんたを呼び続けたのに、行っちゃったわ。それで私、夢中で走って、やっと戻ってきたの。するとあんたは座っていた。岩場の一番はしっこに。ぞっとしたわ」
 「わたしはだいじょうぶよ。この通り無事だわ」サラはリビーを落ち着かせようと言った。
 「あんた、『死』につかまりそうだった。もう少しだった」リビーはおびえていた。
 「ベッドに戻って、リビー」
 「死は、ここへきたのよ。私たちを捕まえに」
 「違うわよ。あなたが死ぬのは勝手だけど、私の命はまだ終わりじゃないわ」セーラはろうそくを吹き消し、宝物の小箱を持って自室へむかった。「もう、休むわ、おやすみリビー」

 居間に残されたリビーは、テーブルの上のフィリップの写真立てやバラの花に気づき、セーラに直接言えなかったことを口にした。「結婚記念日おめでとう、セーラ」
 リビーは居間の揺り椅子に座り、胸のペンダントをまさぐりながら、日の出前の薄明に顔をむけた。

 夏の終わりの海を、日の出が照らし始めた。静かな夜明け。
 朝の居間で、セーラはフィリップの写真とろうそく立てを暖炉の上にもどした。ひとりで祝った記念日が終われば、セーラにはまた、いつもと変わらない日常がつづく。

 「セーラ・ルイーズ!」めずらしくリビーがミドルネームをつけて呼んでいる。「セーラ・ルイーズ!」居間に出てきたリビーは、すでに着替えを終えていた。
 「何よ、リビー」リビーがミドルネームつきで自分をよぶときは、何かあらたまったことを言いたいにちがいない。
 「セーラ、あんたに迷惑をかけたくないの」
 「わかってるわ」
 「あれは、悪い夢だった」
 「そうね」
 「ひどく、うなされて」
 「そう思うわ、リビー」夕べのマラノフへの仕打ちを、まだセーラは許す気になれなかった。いつも勝手なリビー。頑固で偏屈なリビー。
 「マラノフさんが鯨を見にくるんでしょ」リビーがたずねた。
 「いいえ、リビー、マラノフさん、いらっしゃらないわ」
 リビーは、マラノフへつらい言葉を投げかけたことを思い起こす。セーラが怒っているのも無理ない、とリビーにも思えた。
 「あんた、私と別れたいって考えているんじゃないの」リビーは、不安を口にした。
 「それが、一番いいやりかたかもね」セーラもゆうべからのわだかまりをそのまま言ってみた。 
 「でも、私たち、ずっと一緒にやってきたじゃない。それを今さら」
 「もう、私は必要ないでしょう、リビー」セーラは、テーブルクロスをたたみながら答えた。
 「それで、どうするつもり?」
 「この冬は、島に残ろうと思うわ」セーラは、本土に戻るつもりがないことを口にした。
 「ティシャといっしょに?」
 「たぶんね」
 「そして、竜ゼン香でも探すの?」
 「まあ、そんなとこね」
 「セーラ、髪をとかして」リビーはブラシを差し出した。
 いつもと同じように、セーラはリビーの髪をととのえてやる。「それで、リビー、あなたはどうするつもり」
 「そうね、娘のアンナの家へでもいくわ。そして話し相手をみつけてもらうわ。娘なら、それくらいしてくれるでしょうよ」
 「もちろん、そうしてくれるわよ」セーラが言う。これまでの母娘の不仲が、解消されることはないかもしれないけれど。
 リビーは「人生は私にはイジワルだわ。しみじみそう思う」と言い、髪をまとめ上げないうちに立ち上がった。自室へ戻りながらセーラにたずねる。「私の髪、白鳥みたいに真っ白かしら」
 「ええ、そうね」セーラが答えた。
 「お母さんと同じくらい、白い?」
 「ええ、その通りよ」
 「私は美しい髪してたわ。見事な髪が自慢だったのよ」
 リビーは自室にこもり、セーラは部屋の片づけをつづける。

 窓の外に車が止まり、ティシャが見知らぬ男の人をともなってやってきた。「こんちわ、こんちわ」
 「ティシャ」ドアを開けてサラは、二日続きでやってきたティシャを招き入れた。
 「おはよう、セーラ、こちら、不動産屋のベックウィズさん」ティシャは男性を紹介する。「ヒルダの家を見にきたのよ」
 亡くなったヒルダの家は、さっそく売り出されることになったようだ。
 「はじめまして」不動産屋は、はやくも品定めの目つきで家の中を見回す。
 「私とセーラは50年来の友達で、姉妹同様よ」ティシャは、不動産屋をつれてきたことがセーラのためになると、確信していた。

 「どういうご要件でしょうか、ベックウィズさん」セーラは問いただした。
 「ええ、タウティ夫人からこの家の売却をご希望とうかがいまして」
 「ティシャ」セーラは納得できない。
 「昨日、話したでしょ。いい機会だと思ってね。鉄は熱いうちにうてと言うじゃないの」
 「それこそ、商売のコツですな」不動産屋はティシャをもちあげる。
 「ええ、ありがと」
 ベックウィズは遠慮無く値踏みを始めた。「防寒は不備ですね」
 「私の伯父が半世紀以上まえに建てたんです」
 「そうですか」ベックウィズは部屋から外を見て「ながめは抜群ですな」と言う。「この眺めなら、高値がつく」
 「お値段、いくらくらいになりますの」ティシャがすかさずたずねた。
 「寝室はいくつありますか」不動産屋は部屋数を確認する。
 「三つですが」セーラが答えた。
 「二階を拝見」不動産屋は階段をのぼりかけた。
 「だめよ」セーラは言った。「下りてください」
 セーラは不動産屋にきっぱり告げた。「タウティ夫人の思い違いよ。この家は売りません」
 不動産屋は見込み違いを理解して「どうもおじゃましました」と、帰っていった。「どうも失礼しました。もしまた、ご用の節は、、、、」
 「私も失礼するわ」親切のつもりであてがはずれたティシャも腰をあげた。
 セーラもひきとめない。「私も仕事があるから。冬になったらフィラデルフィアにたずねてきてね、ティシャ」
 「セーラ、私、ただ、、、、私たち一番の親友でしょ」ティシャは先回りして気をきかせたつもりが、ただのおせっかい終わったことを取り繕おうとした。
 「差し出がましいことだわ」セーラはきっぱり言った。ティシャの気のよさはわかっているけれど、たとえ彼女でも、セーラとリビーの姉妹の仲に割って入り込むことはできないのだ。

 「何も、問題ないわよね」ティシャは、リビーとセーラの仲を気にしていた。
 「もちろん、だいじょうぶ」セーラは答えた。
 「さよなら、セーラ」
 車を運転できない今は、ティシャがこの家へ来るのもめっきり少なくなることだろう。

 思いがけない客が去ったあと、セーラは思いを込めて部屋を見渡した。母の写真、家具、暖炉、みな、なじみの自分の一部だ。
 暖炉の上の夫の写真にセーラは語りかける。「私たち、この家を出ないわ」

 「また、ひとりごと言って」と、リビーがとがめながら部屋から出てきた。「今の、ティシャだったの?」
 「そうよ」
 「男の人の声も聞こえたわね」
 「ティシャの連れだったけど、追い返したわ」
 「そう、それはよかったわ」リビーはいつもの窓際のいすに腰掛けた。
 セーラはリビーに仲直りのことばをかけた。「私、少しも迷惑してないわ」
 「あんた、よくしてくれてるわ、いい妹よ」

 がちゃがちゃと、いつものけたたましさで、ジョシュアが入ってきた。「どうも、おじゃましますよ。おはようございます」
 「ま、ジョシュア、何のご用?」リビーが声をかける。 
 「レンチをなくしちまってね」
 「あら、きのう修理していた場所にあるんじゃないの?」セーラがいうと、ジョシュアはさっそく探しに出ていった。

 「少し、朝ご飯を食べなきゃ」セーラはリビーに言ってみる。
 「ええ、いただくわ」
 「じゃ、運んでくるわね」

 「見つかりましたよ」ジョシュアの声が響いた。
 「あんなにやかましい人はどこにもいないわね」やれやれという調子でリビーが言う。
  「おじゃましましたね、どうもすいません」ジョシュアはレンチを持って帰りかけた。

 「ブラケットさん」リビーが呼び止めた。リビーが正式な名を呼ぶのは、あらたまって話をするときだ。
 「なんでしょうか、ストロング夫人」
 「見晴らし窓を作るには、何日くらいかかるの」リビーがたずねた。
 思いがけない質問に、セーラとジョシュアは顔を見合わせる。
 「そうさね、2週間もあれば」
 「今なら、材木も高くない時期なんでしょ」リビーの質問は、セーラにはうれしいものだった。
「労働者祭までには仕上がるの?」リビーは質問をつづける。
 「あ、でも、昨日は、、、」ジョシュアは昨日きっぱりと断られたので、リビーの気が変わった理由がわからない。
 「私たち姉妹で決めたことなのよ。あんたに作ってもらいたいってね。できるだけ早く見晴らし窓、仕上げてね」
 ひとことも見晴らし窓の話などしていないけれど、セーラにはうれしいリビーの心変わりだ。
 「それじゃ、さっそく材木を注文しますよ。みなさん、ほんと気をもませる方達だ」ジョシュアは請け合って去っていった。

 「気持ちのいい朝みたいね」リビーが窓の外に顔を向ける。
 「そりゃあ、美しい朝よ」とセーラ。
 「岬まで行きましょうよ」リビーが朝の散歩を提案する。いつものように、セーラにむかって、手を差し出す。セーラの手がリビーの手をしっかりと握りしめる。

 いつもの麦わら帽子をかぶり、いつもより少し冷え込んだ朝の空気の中を、姉妹はゆっくりと歩いていく。

 ふたりの古びた家。古い時計も、年代物のお皿やカップも、白と赤のバラをさしてあるガラスの花瓶も、みないつもとおなじように、朝の光をあびている。
 暖炉の上の写真たちにも、おなじように朝の光があたり、同じように時がながれていく。若い頃のリビーとセーラの写真。あのころと同じように、ふたりは海辺への道を歩いていく。

 岬のうえで、リビーは海に顔をむける。海は朝の光を反射している。
 「どう、鯨、見える?」
 「もう、いっちゃったみたいね」セーラはリビーの手をにぎったまま答える。
 「いっちゃったかどうか、わかるもんですか。そんなこと、わからないわよ」
 
 そう、鯨は明日来るかも知れないのだ。ふたりが見つめる大海原を、鯨は確かに泳いでいるのだから。
 夏の終わりに、鯨はきっと来る。

 冬が来る前に、新しい見晴らし窓から海をながめる暮らしが、姉妹の時間のなかにやてくるだろう。 
 そして、来年の夏は、またきっとめぐってくる。

<八月の鯨 おわり>

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