日本武尊(ヤマトタケル)東征の足跡を辿る。
このところ仲哀天皇の妃『神功皇后』とその息子『応神天皇』のゆかりの記事が続いてましたが、今度は更に一代遡って仲哀天皇の父『ヤマトタケル』日本武尊ゆかりの神社を巡りました。
ヤマトタケル火難の逸話の伝承がある
【焼津神社】【玉取神社】【草薙神社】【久佐奈岐神社】と、
ヤマトタケルが亡くなったという
『加佐登神社』へ。
【加佐登神社】
三重県鈴鹿市の加佐登(能ぼ野)はヤマトタケルの本拠地。
日本武尊『ヤマトタケル』は古代3世紀から4世紀頃の英雄で、九州・出雲への征西、静岡・関東への東征を行い日本各地を巡り服属させた。
東征を終え美濃・尾張から戻ったがここ加佐登神社のある場所で亡くなったという。
ヤマトタケルの最後は『白鳥』になって飛び去ったという伝説もあり。
(マムシに咬まれた、伊吹山の戦いでの負傷がもと、何処へと去った、諸説あります)
目標物もなく少し分かりにくかったですが、
白鳥陵というヤマトタケルの古墳?を目指して。
見逃しそうな加佐登神社の入り口😅⛩️
参道
ヤマトタケル像
何故か?ヤマトタケルを祭る神社では像が多いですが、屋内型の木造は珍しい。インパクトが凄い。
日本武尊(ヤマトタケル)
【焼津神社】
静岡県焼津市焼津2−7−2
御祭神 ヤマトタケル 市杵島姫
景行天皇の命令で、日本武尊(ヤマトタケル)は東日本へと出征した。
ヤマトタケルは東征の前に、伊勢に立ち寄り斎宮をしていた伯母・倭姫より王家の神剣【天叢雲剣】を授かる。
静岡まで来た際、この地の国造がヤマトタケルに計略を謀り、野に火をかけて焼き殺そうとした。ここ【焼津】という地名の語源となっている。
ヤマトタケルは天叢雲剣で草を薙ぎ払い、倭姫より渡されていた「火石」(火打石)で火をつけ向え火を放って難を逃れた。
天叢雲剣(アマノモラクモのツルギ)は以来「草薙剣」と呼ばれる様になった。
ヤマトタケル像
【玉取神社】
焼津神社から朝比奈川の上流へ20 km ほど行ったところにある。
ヤマトタケルが焼津に来た時、
市杵島姫の宝玉という石を二つ「火石」と「水石」を携えてきていて焼津の地に奉じたという。
しかしその後、津波があり二つの宝玉は焼津から朝比奈川の上流にうつされたが、その後もそのままらしく【玉取】の名の由来となり、ここの神明社に祭られたという言い伝えがある。
【草薙神社】静岡県静岡市清水区草薙349
御祭神 ヤマトタケル
創 建 景行天皇
ヤマトタケルが野火の火難に遭ったのは、焼津ではなくこちらであるとの説があり、
後にヤマトタケルが亡くなった後で父・景行天皇がこの地を訪れここにヤマトタケル(日本武尊)を祭り神剣・草薙剣を収めたのが起源とされる。
(草薙剣は三百年後に天武天皇の命令によって熱田神宮に遷された)
参道
摂社
この社の前で祈りを終えると、5 kg ほどありそうな折れた枝が落ちてきた。
ドンッ! びっくり(*_*; なにかの合図か?🙏
比較的、小さな古墳の様にも見える草薙神社の杜。
【久佐奈岐神社】静岡市清水区山切
こちらもクサナギ神社だか、元々は98000社と言われ、この地より
ヤマトタケルが98000人の兵を率いて東へ出征していたことからそのように呼ばれたらしい。
住宅地の中に溶け込んでいる比較的小さな神社。
ひっそりとしている。
9万8千人の出兵の面影はなく、今は静かに鎮座している。
静岡の神社はどこも氏子さん達と神社の関係が密で、永く地域に根付いていた繋がりを感じる。
かつて、北条早雲が領主となる今川氏親(今川義元の父)を後見していた頃、
「国人・地侍を大切にするように」と子供の頃から泥田に足を浸して百姓の仕事を手伝わせ育てた地域密着型の家風によって、神社氏子の間にも吸収され地域に受け継がれてきたのではないだろか、、?
特に、焼津神社は地域の方達の御霊が祀られ、戦没者慰霊御霊社また海難事故で亡くなったかたの慰霊碑は私が今まで見てきた全国の神社の中でも大きいかもしれない。日本最大級
最近は、何故か寒々しい感じもするが、😔
日本列島を東西に征覇した英雄ヤマトタケルだが、今はひっそりと鎮座されていた。
ヤマトタケル(和武建・日本武尊)も、
祭られている神社はそう多くはない。
加佐登神社と同じ鈴鹿市内にある
伊勢の国一之宮『椿大社』にも摂社に祭られていた。
ヤマトタケル風😂モードで行ってみた、、
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胡服(=遊牧騎馬民族が着ていた服)
ズボンの裾、膝下あたりを紐で縛る『足結』は胡服の特徴。
足下がヒラヒラとした感じになるのが、なんとも古風で好きだ。
この時代の約千年後には、所謂「チョンマゲ&和服」の日本独自のファッションになってしまうが、古いもの好きの私は千年、二千年前の上古のスタイルがたまらない。
胡服は馬に乗る為に、胡人が着ていた。
中国の優雅な漢服と違って機動力に優れ、騎兵戦に適している。
胡人が着るので胡服と言われたが、胡人とは中国の周りにいた鮮卑、匈奴、烏桓、契丹、突厥などの遊牧騎馬民族の総称で、イラン系のソグド人、ペルシアまで胡人という場合もありかなり幅広く、時代の流行でも胡服は幾つかあり足に脚絆を巻く場合もある。
しかし、人馬一体だった遊牧騎馬民族にとっては、馬上から弓を射るには、手綱ではなく馬腹と足先だけが馬との唯一のコミュニケーションとなるので、脚絆よりもフワッと布で足を包んでいた方が、馬腹を蹴る足の体感の機微が好まれたことだろう。
日本に馬を飼う『兵馬』と言う文化が渡来してきたのも4世紀頃、
ヤマトタケルの時代以降の古墳時代からで、馬具や馬の埴輪が登場するようになる。
古代、、日本列島に
後からやってくる渡来部族らは新しい文化や強力な戦法を携えて上陸し、
日本先住の在来部族らを征覇していった。
ヤマトタケルは日本武尊または倭武建とも書く。
景行天皇の王子だが、王として即位してたとの説もあり、東国にはヤマトタケルを「倭武天皇」とする伝承もある。(常陸の国風土記)
伊勢神宮の斎宮である伯母・倭姫より神剣『天叢雲剣』を授けられたのが即位の礼であり、東征には王として出征したという。
ヤマトタケルが妃の弟橘媛命を伴い出征していることからもそれが伺える。
古代の遊牧騎馬民族の特徴は、
王は皇妃を伴い出征し、王にもしもの事があれば、
王に代わって皇妃が軍を指揮するのが常で、
王子ならば妃を伴う必要はない。
関東には弟橘媛命を祭る神社もあり、また何れ改めて廻ってみたい。
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