福束城の戦い
~丸毛兼利の関ヶ原~
美濃福束(ふくつか)城には丸毛兼利がいました。石田三成は早くから彼を誘い、西軍につけます。小城とは言え、ここはそれだけ戦略的に重要な場所にあったのです。 |
丸毛兼利と福束城 丸毛氏は美濃多芸郡の土豪である。兼利は河内守光兼(長照・長住とも)の子で、父とともに元は斎藤氏の支配下にあったが、永禄三年織田信長軍と戦って以来信長に従っていた。本能寺の変で信長が滅びてからは秀吉に従い、美濃直江・大墳城主を経て天正十七年より福束城二万石の主となり、秀吉に従って九州征伐や小田原征伐に出陣している。 福束城は、大垣市南端に隣接する岐阜県安八(あんぱち)郡輪之内町福束にあったのだが、後にすぐ横を流れる揖斐川の流れが変わったため、城跡そのものは水没してしまったという。写真は現在の揖斐川左岸・輪之内町福束で撮影したもので、城は左手から中央部にかけて見える堤防のあたりにあったのではないかと推定されている。 地図を見ればすぐわかるのだが、ここは揖斐川とその支流(水門川・牧田川・相川・大榑川など)の近くにあり、位置的にも大垣から南へ二里(現在の名神大垣ICから南へ2km)ということもあり、伊勢湾から大垣方面への舟運の重要な拠点であった。したがって三成は早くから彼を味方に誘い、攻撃拠点というよりも、もっぱら城の防御を固めさせて兵糧や武器の補給拠点としての任務を与えていた。 ただ、福束城から南へ一里にある今尾城(一万石・現岐阜県海津市平田町今尾)の市橋長勝と、南東一里半にある松ノ木城(三万石・現岐阜県海津市海津町松木)の徳永寿昌は、尾張黒田城主一柳直盛から誘われて東下しており、この戦いの直前には東軍の先鋒大将福島正則の麾下に属していた。位置的にも近いこれら三城の領主はもともと友好関係を築いていたが、戦国の運命は皮肉で、以下の福束城の戦いはこれら三将によって繰り広げられることになるのである。写真は市橋長勝の居城今尾城跡で、現在は今尾小学校となっており、城跡の碑は小学校敷地内に建てられている。 福束城の戦い 東軍の諸将が続々と清洲へ集結する中、八月十一日夜に市橋長勝・徳永寿昌の両将は美濃に帰国した。写真は現在の清洲城天守閣であるが、これは後に建てられたもので、当時の城は東西約2km・南北約2.5kmの広さを有し、三重の堀をめぐらせた大規模な城であったという。 さて両将が帰国してみると、美濃の情勢は彼らの予想を上回って西軍に傾いていた。国内のほとんどが西軍に加担しているのである。これは後で述べるが、岐阜城主織田秀信が西軍に加担した影響が大きい。市橋・徳永の両将は急ぎ城の防御を固めた。この頃清洲にいて家康の出馬を待っていた福島正則は、配下の尾張赤目城主横井伊織介を丸毛兼利の家老丸毛六兵衛に派遣し、翻意して東軍につくよう説得するが、兼利はこれを拒否した。この報を受け、正則は、市橋・徳永と相談の上で横井伊織介をその援軍として加勢させることとし、両将に福束城の攻略を命じた。 八月十六日朝、東軍勢は福束城の東方から軍を進め、福束城の南東大榑(おおくれ)川左岸の勝賀村付近(現岐阜県海津市平田町北部一帯)に布陣した。迎え撃つ福束城の丸毛兼利も対抗して川を挟んだ右岸一帯に出陣する。兼利から報せを受けた三成は、大垣城主伊藤盛正・長松城主武光式部に福束救援を命じ、自らも手兵を裂いて舞兵庫ら計三千の救援軍を福束へ向かわせ、これら両軍が川を挟んでにらみ合いとなった。 右の写真は福束城ゆかりの福満寺で、当時は福束城の敷地内にあったが(同寺には福束城の絵図面が現存する)、川の流れが変わった際にこの場所へ移転したという。 川幅が広いため膠着状態が続いていたが、東軍勢が一計を案じ、夜半密かに別働隊を編成し、遠く迂回して福束の北東に位置する楡俣村へ潜入させた。この別働隊が付近に放火したのを合図に、全軍が一斉に渡河を始め攻撃を開始したのである。西軍は予期せぬ敵が背後から攻め立てて来たので驚き、伊藤勢らは堤防伝いに大垣城へと逃げたが、丸毛勢は福束城に籠城した。 引き続いて東軍は福束城に攻め寄せる。兼利は支えようとするが、勢いの差が大きく支えきれず、ついに城を捨てて大垣城へと敗走した。兼利は関ヶ原合戦後は前田利常に仕えて二千石を領し、入道して道和と号した。没年は正保四(1647)年一月二十八日という。彼は永禄十二(1569)年の信長による伊勢大河内城攻めに従軍したと記録にあるから、享年不明ではあるが、非常に長寿を保った武将である。 東軍はこうしてさしたる損害もなく福束城を落とし、小さな戦いではあったが、美濃における緒戦を幸先良く勝利で飾った。 |