モンゴル帝国の宗教は、天を崇める国家規模の巨大なシャーマニズムだったとのことだ。モンゴル帝国が世界を席巻していく過程で、シャーマニズムが異常発達していく。この辺のところはあまり研究が進んでいないらしいが、興味深いしありえる話だと思う。
シャーマニズムは、分かりやすいところでは、恐山のイタコを想像するといい。宗教に密接に関連していて、「忘我」だったり「陶酔」だったりする。他人にもそれが伝播する。日本の明治期に起こった革命的変革は、天皇を中心とするシャーマニズム的要素が少なからず影響していると思う。また、世界中に星の数ほどベンチャー企業があるが、アップルやグーグルみたいな企業は稀である。ちょっと大きくなるのではなく、ビックバン的広がりを見せるベンチャーは、社員がある種の「陶酔」状態になっている。そこには何かある。
女王蜂は、女王物質というものを出して働き蜂の行動を促進していく。それと同じように、ある集団が、「忘我」や「陶酔」をしながら行動していくには、トップの精神的な何らかの働きかけがあるように思う。意識的か無意識的は別にして。中小企業から大企業に変化しいく過程は、もちろんヒット商品や時代の流れにうまく乗ったとかいろいろな理由が考えられるが、社員にそれを支える魂がなければそのような変化は起きない。社員が金銭的な利害関係を越え、何かに取り付かれたかのように働かなければ会社は大きくならないだろう。
ホリエモンなんか見ていると、好きと嫌いに関わらず、何かしらの人を扇動していく要素がある。この要素をもう少し研究してみるのも面白いかもしれない。少し怖いけどね。
お相撲さんのかなりの数はギャンブル依存症だったのではないかと思う。依存症の人間を説得するのはかなり難しい。本人はそれを自覚していないし、それにはまっていることをそれほど悪いことだとは思っていないからである。だからやめさせるには、あのようにマスコミに報道されて国民から激しいバッシングを受けるという外的なショックが必要である。やめるという観点からは、バッシングをうけてよかったのかもしれない。
依存症には、様々な種類がある。一番ポピュラーなのはアルコール依存症だろう。他にもニコチン依存症、薬物依存症、恋愛依存症、セックス依存症などがある。私もかなりのヘビースモーカーだったので、ニコチン依存症だったのではないかと思っている。ただ私の場合、やめようと決めてからすぐやめられたのでそれほどきつい依存症ではなかったのかもしれない。性格上、何かに依存して生きるというより自律して生きるほうを好むこともすぐやめられたことと関係しているかもしれない。
依存症は、ある一定の行為を行うことで、虚偽の安心や精神的安定が得られるため、その行為に執着することから始まる。このように、とりあえず目先の安心・安定を求めるときは、精神的緊張を強いられている場合が多い。例えば、相撲のように勝負の世界に身をおいていたり、たこ部屋で長時間労働を強いられていたりしている場合である。だから、依存状態から脱するためには、何より緊張状態から、精神的にリラックスした状態にしなければならない。そうでなければ、何かの依存をやめることができても、また別の依存に移るだけになってしまう。
搾取する側の観点から考えると、依存症の人はいいカモである。高い税をかけてもニコチン依存症の人はやめないし、アルコール依存症の人も同様である。国家が中毒にして搾取している。ひどい話である。やくざも金の持っている相撲取りをギャンブル依存症にして金を巻き上げていた。国家もやくざも同じようなものだ。金を巻き上げることしか考えていない。
それから依存症の人との付き合いであるが、かなり問題がある。依存症の人は依存している対象に執着していて自分の欲望を満たすことを重視するから、人がどうしたいかとか、どう考えているかとかをあまり考慮せず自分勝手に行動する。自分の執着中心に行動し周りのことに注意を払わない傾向にある。だから、一緒にいて面倒くさいし厄介なトラブルに巻き込まれることになる。
依存症の人は自分が依存状態にあることをあまり認めないし、それを悪いことだと思っていない。だから、それを注意する人はうざい奴ということになる。しかし、注意する人間はその人のことを本気で考えているのだし、彼が抜き差しならない状態になっていることを本気で心配しているのだ。どうでもよければ注意などしない。
まぁ、人の気持ちがよくわかって人間関係をうまく構築できるタイプであれば、そもそも依存症にはならないだろう。自分しか見えておらず、人間関係に問題を抱えているから依存症になるのだ。だから自業自得のところがある。すこし、厳しい意見かもしれないが。
ピアノを弾くということは、言葉を話すことと同じように、意思と動作の間の時間差をほとんどない状態にすることである。
だから、小さい頃から反射神経を鍛え、思った音をすぐ出せるように訓練する。ただ、日本語を話せるからといって簡単に人を感動させる演説ができないように、ピアノが弾けたからといって必ずしも人を感動させる演奏ができるわけではない。
人を感動させるためには感動させるだけの精神性が備わっていなければならない。
吉本隆明氏は老年者のことを「超人間」だと言った。老年者は身体的にはよぼよぼであっても、想像力、空想力、妄想、思い入れなどは若いときより活発になるという。
ホロウィッツ氏の演奏は、ソフトなタッチからゆっくりと悲しみを漂わせ、静かに人々を引き込んでいく。彼が円熟した超人間であることは否定できない。彼の精神性がモーツァルトの曲の中に現れている。