フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

夏の花火(過剰なエネルギー)

2010年07月24日 22時54分16秒 | 身体・健康・筋トレ

 明日、山を登るので、軽く土手を走ってきた。
 土手で中学生くらいの少年少女達がが花火をしていた。線香花火みたいなかわいいものではなく、どちらかというとロケット花火のようなバンバン音がする激しいものが多かった。その激しい音は、どこにぶつけていいかわからない彼らの荒ぶれる魂の響きのように聞こえる。
 夏は過剰なエネルギーが生まれてくる季節である。
 その中学生を横目で見ながら、自分の中学時代のことを思い出していた。夏の全国大会に負けて部活が終わると、高校受験に目標が変わっていく。
 その気持ちの整理がうまくいかず、仲間同士で遊びまわっていた。そしてしまいに「樹氷」とか何とかの酒を手に入れて(まだあるのかなぁ)、外でこっそり飲み出した。
 祭りなんかあるとビールを軽く舐める程度には飲んだことがあったが、きちんとアルコールを摂取するのははじめてだったと思う。完全に酔っ払って軽い急性アルコール中毒気味になってしまい、弟に担いでもらって帰ったことを記憶している。このトラウマ的経験は私のアルコール嫌いに強い影響を与えていると思う。
 私は今でも一年に数回しかアルコールを摂取しない。

 そんなことを考えていると、警察がやってきて中学生に注意をし始めた。多分、うるさいとの通報があったのだろう。花火くらいやらせてあげればいいのにね。かわいそうに。

 私も軽く流そうと思っていたが、スピードを上げて思いっきり走ってしまった。この身体からあふれ出るような過剰なエネルギーを消費しなければよく眠れないなぁと感じたからだ。
 よく考えると、私の場合、この過剰なエネルギーから生まれる暴力性とどう向き合うかが、日常での大きなテーマだったような気がする。
 暴走族の爆音も、花火の激しい音もある種の行き場のない暴力性の現れである。人はそれを敏感に感じる。それは暴力性に対する不安と不快な感情である。だから、このエネルギーをうまく処理しなければ周りを不幸にしてしまう可能性がある。

 この過剰なエネルギーの正体は、おもいきっていってしまえば、性的エネルギーである。俗にいう「たまっている」ということである。このエネルギーは生命力の源であり生きるパワーでもあるが、正しい方向性を失えば暴力に変わる。しかし、うまく使えば文化的活動に昇華させることもできる(芸術など)。まあ、私も少しづつその方法を学んでいる。

 

 

 

コメント
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