いじめの問題が起こると、暴力の問題ってなかなか無くならないなぁとつくづく感じる。だから、どんなに平和な世の中になっても、戦うための武器ややり方は捨てられない。
学校は、建前上、ケンカを教えるところではない。
しかし、じゃあ、ケンカってなんだよ、となると物事はそう簡単ではない。学力は、ある意味、社会に出て競争していくための武器である。だから、競争は広くケンカに含めべきだろう。そうであるなら、勉強を教えるのだって、ケンカの基礎を教えることだともいえる。
いつも思うのだが、やられたらやりかえすことの正当性をなぜきちんと子供に教えないのだろうか。
もちろん、仲良く協調して物事を進めていくことも教えなければならない。しかし、ケンカすることはそれと矛盾しない。
共同体で物事を進めていくとき、その過程で、多くの選択肢が生まれる。その時、自分の信じた方法が正しいと思ったら、自分の主張をきちんとして、議論に打ち勝ち、相手の譲歩を勝ち取らなければならない。
それはある意味ケンカである。
協調性とは、それを感情論に持ち込まないことなのである。自己主張しながら、相手を感情的に怒らせない技術なのである。また、自分が議論に負けても感情的にならない技術でもある。そうやって、物事を前に進めていく。
しかし、それでも、ガチンコでやりあわなければならない修羅場が必ず一回は来る。理不尽にかつ一方的にやられ、うまくやっていく可能性がないときである。その時、きっちり相手にやりかえすことは間違ったことではない。そうしなければ相手はまた同じ事を繰り返す。
ただ、臆病者にはやり返すことはできないし、愚か者にもやり返すことはできない。
一歩も引かずやりあう勇気と、味方をつくるだけの賢さがなければケンカはできない。そのやり方を教えるのが教育の役目である。社会はもっと厳しい。
いじめている生徒を見つけて、それを諭し、それでも直さない場合、最終的にぶん殴れない先生はやめてしまえと思う。向いてないと思う。多数の生徒に気に入られることが重要で、自分の信念を主張できないやわな野郎じゃぁないかと思う。先生には、いざとなったら場を凍りつかせるだけの迫力がなくてはならない。命がけでなくてはその迫力が出てこない。
やわな先生は、長いものに巻かれる方法はうまく教えられるかもしれないが、ケンカのやり方なんか絶対教えられない。
生徒はケンカの仕方を知らないから自殺してしまうのだ。