精神と身体の関係について、両者を分けて考えるのが心身二元論である。
この二元論の立場では、主観と客観の一致が問題となる。
たとえば、今、目の前にあるりんごについて、自分に見えているりんごと、実際にある客観的なりんごが正確に一致しているのかという問題である。
何でこんな議論をするかというと、主観客観のりんごの一致が問題なのではなく、正しさとか道徳みたいな行動の基準となる価値観の判断をする時に問題となるのである。
私が正しいと思ったこと(主観)と客観的にみんなが正しいと思うことは一致するのかという問題である。
なぜこの問題が重要かといえば、世界で起こる戦争の多くはこのような世界観の違いから起こるものだからである。
もし、個人的な主観と客観的な世界観が統一できれば、戦争は無くなる。みんなが一つの正しい真理を守っていけば良いからである。
しかし、この問題は解決しない。
なぜなら、主観と客観は一致しないからだ。
そこで、主観(自分の思ったこと)に統一して、世界を組み立てていくという独我論的なやり方をするのが、現象学である。
私が思ったことが正しい世界というわけだ。
そして、戦略的に主観から出発する。
私が何かを考えるときは、このようなやり方を前提にしていた。
現象学も、なかなか魅力的な考え方である。
ただ、現象学的発想だと、世界は人の数だけ存在することになる。
よくいっても、世界は価値観の違うそれぞれの人との妥協によって形成されるものでしかない。
この点、スピノザは心身一元論をとり、精神と身体を分けて考えない。
人間は単に自然の一部であって、両者の違いは、「実体=宇宙・自然=神」を違う視点から見た属性の違いであると考える。
いわゆる「汎神論」である。
スピノザのいう神の定義をちょっと引用してみよう。
「神とは、絶対に無限なる実有、言い換えれば、各々が永遠・無限なる本質を表現する無限に多くの属性から成り立っている実体、と解する」
少しわかりづらいが、ここでいう「神」は、一神教でいう超越的存在の「神」とは明らかに違う。
一神教の神とは違い、別に何か私たちに命令するわけではなく、単に存在している宇宙(物質)そのものを神と考えるのである。そうすると私も神の一部となる。
このような一元論的な考え方は、特殊であるが、じっくり考えてみると本当にそうではないかと思わせるところがある。
つまり、主観・客観の二元論で考えると、魂の存在を肯定してしまうが、脳科学が発達してくると、思考というものは、単に神経を走る電気信号の組み合わせで、精神という何らかの目に見えない魂があるのではないともいえるからである。
スピノザの思想は、これから科学が発達して研究対象としての人間の脳や身体が明らかにされた後でも、十分それに耐えうる思想だと思う。
心身一元論や汎神論は、科学的見地とも合致する優れた思想である。
科学はなかなか魂を肯定しづらい。
私は仏教の考え方も非常に優れていると思っているが、スピノザの思想は仏教的な考え方とよく似ている部分がある。
しかし、同じではない。
仏教的なものとどのように繋がるのか、また、どのように違うのか興味深い。
もう抽象的な議論のために人生を費やすほど若くはないので、それが私たちの生にどのように役に立つのかが重要である。
私たちは、実際に生きていくうえで困難にぶつかった時、どのよう振舞うべきかを示してくれる哲学を必要としているのである。
仏教の瞑想や呼吸法は、怒りをコントロールしたり不安を取り除いたりすることが可能であり、実際に役に立つ。
しかし、仏教は必要悪としての暴力に対してどのように答えるのかという問題が残る。また、苦の根源が欲望にあると考えるため、それを抑えることを重視する。
私が勝手に思っているだけなのだが、仏教的な方法は、こころの静寂と平穏は維持できるが、生の躍動感が失われるような気がしている。
スピノザの哲学は、欲望を否定しない。また暴力をも否定しない。そもそも自由意志を否定している。
だから、自分のした行為は避けられないのだから、自分の行為・人生を肯定するしかない。
そして、人の間違いを許し、社会を許す。決して運命に振り回されない。
このような生を肯定する思想は、実践する哲学として十分使えるのではないかと思っている。