フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

物語の効用と副作用

2009年02月10日 18時37分07秒 | 社会・政治・思想哲学

 Apple社 1976年 すべてはスティーブ・ジョブズのガレージからはじまった。このようにいわれると、MACやipodをつくった会社の歴史について知りたくなる。
 Googleの会社理念はDon't be evil 邪悪になるな、である。ここにもまた何らかのストーリーがありそうである。

 人が時間の流れを意識したときから、必然的に物語を生み出すようになる。フランス語では物語と歴史は同義である。
 英語では、
historyは物語という意味もあり、その語の中にstoryが含まれている。

 自分が何者かは現在の一点からは判断できず、どの地域で、どのように生まれ、誰に育てられ、どのような環境で育ったかすべて総合的に判断しなければならない。
 自分という人間がなぜこのような性格で、どうしてこのような考え方をするのかを徹底的に探っていけば、どうしても自国(地域)の歴史というものにぶち当たってしまう。
 生まれた地域の気候、地形が食べ物をきめ、また独特の言葉や風習を生み出す。私という自己はいやおうなしにその流れの中に巻き込まれている。

 犬や猫も、時間を多少意識できるだろうが、長いスパンでものを考えることはできない。100年、1000年、1億年、という時間を観念できるようになってから、人間は歴史=物語を作りださなくては、生きていけない動物になってしまった。
 そして、人間が作り出した物語が強固で繰り返し繰り返しあらわれると、そこから逃れられなくなっていく。旧新約聖書、コーランは今も人々に強烈な影響をあたえている。古事記もそうかもしれない。

 もちろん、物語は人間を精神的に強くする側面がある。今いった宗教や誇り高い国家の歴史観、優れた功績のある家系などである。
 冒頭でもちょっと例を出したように、会社の経営者が社員一人一人が誇りのもてる共通のストーリーが提示できれば強力な集団が形成できるだろう。

 日本について考えれば、誇りのもてる国家観を、さまざまな人が提示しているが、必ずしも成功していない。政治家も言葉をうまく使えていない。
 
個人にとっても、自分固有の物語をうまく紡ぎ出せれば人生の強力な武器になる。
 自分の人生を物語によって作り変えていけばいい。
 会社が倒産して借金10億円、女房に逃げられ、首を吊ろうとしたとき、ちょっとまてよ、この状態から復活したらかっこいいなあと自分で将来の物語を書いていくのだ。
 悲惨であればあるほど物語は劇的になる。そう考えれば、自殺なんてばかばかしくてやっていられない。

  ただ、物語には恐ろしい副作用がある。
 例えば、カルト宗教や振り込め詐欺のようなよくできたいんちき物語だ。
 どうしてあんな話にひっかかるんだと思うが。当事者になると、意外と巧妙に作られている。人間はその物語の流れにはまってしまうと、後戻りできなくなる。
 
 物語の世界は、リアルな現実世界ではなく脳内の仮想世界である。しかし、現実の世界以上に、私たちの生活を支配する。 

 

 

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悲劇について 小林秀雄

2009年02月10日 00時51分56秒 | 社会・政治・思想哲学

 小林秀雄の「悲劇について」の一節が好きだ。

 ちょっと引用してみよう。

 「悲劇は人生肯定の最高形式だ。

 人間に何かが足りないから悲劇が起こるのではない、何かが在り過ぎるから悲劇が起こるのだ。否定や逃避を好むものは悲劇人足りえない。

 何もかも進んで引き受ける生活が悲劇的なのである。

 不幸だとか災いだとか死だとか、およそ人生における疑わしいもの、嫌悪すべきものをことごとく無条件で肯定する精神を悲劇精神という。

 こういう精神のなす肯定は決して無知からくるのではない。

 そういう悲劇的智恵をつかむには勇気を要する。

 勇気は生命の過剰を要する。

 幸福を求めるがために不幸を避ける、善を達せんとして悪を恐れる、さような生活態度を、理想主義というデカダンスの始まりとして侮蔑するには不幸や悪はおろか、破壊さえ肯定する生命の充実を要する」

  「ギリシャ悲劇でも、シェクスピア悲劇でも、何が私たちを感動させているか合理的には説明はできない。

 しかし、それが人間の運命というある感情の経験であることは疑えないように思われる。

 悲劇を見る人は、どうにもならぬ成り行きというものを合点している。

 あの男が、もっと利口に行動したら、あるいはあの特別な事件が起こったら、こうはならなかっただろう、そんなことは考えない。

 すべては定まった成り行きであったと感じるのであるが、このとき私たちは、ある男のああなるよりほかない運命に共感するのである」

 
 現代の私たちは嫌悪すべきものを避けようとする。不幸を避けようとすればするど不安は増していく。

 不安の時代であるが、悲劇の時代ではなさそうである。

 

 

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