「日本国」という山名の由来は定かでないそうな。
一説には、その昔、安倍比羅夫(あべのひらふ)の大和朝廷軍が東征の折、苦戦を重ねながらここまで進軍し、この付近の頑強な蝦夷(えみし・えぞ)勢力の平定に一応成功したことから、誰言う事も無く感慨をこめて、ここまでが「日本国」と(日本国と蝦夷地との境)したことが山名の起源ではないかとも言われています。またの説には、飛鳥時代に、時の権力者曽我氏の圧制により、身の危険を感じ都落ちした蜂子皇子(はちこのおうじ)が「上隠し小屋」(現在の日本国)に隠れ住んだと伝えられている事や、江戸時代、大代集落の太郎次という狩りの名人が堀切峠の頂上でみごとな鷹を生け捕り、これを庄内藩の酒井候に献上したところ、この鷹を見た当時の将軍が「獲れた山は今後、日本国と名付けよ」と仰せられたなど・・・。
現地パンフレットより。
「日本国」は、新潟県の最北に位置する村上市伊呉野と山形県鶴岡市温海を起点とし、朝日連邦に連なる県境の稜線上約6.4kmの地点に位置し、すり鉢を伏せたな山容から別名「石鉢山」とも呼ばれています。
○予定コース
ふれあいパーク(旧小俣小学校前)→松ヶ峰→蛇逃峠→日本国山頂→蛇逃峠→蔵王堂登山口→小俣宿(旧宿場町)→ふれあいパーク(旧小俣小学校前)
「ふれあいパーク」には30台位停められる駐車場も有り、そこへ車を停めて登山準備です。
「ふれあいパーク」前の登山口です。写ってる女の人はどこのどなたかは知りません。
登り始めてすぐに小学校のプールと体育館が見えてきます。
登山道は緩やかな所があったり急な所があったり様々です。大雑把に言えば始め急登あと緩やかといった感じでしょうか・・・。
「ラジウム清水」です。ラジウムというとキュリー夫人を思い出します。個人的には原子爆弾の母といった印象でしょうか・・・。
胃腸の悪い人や子供のオタフク風邪、目の病気に良く効くとの噂・・・。
最初の休息所です、「松ヶ峰広」。眺望は良くありません、ただ休むだけの場所です。
二つ目の休息所です、「沖見休息」。こちらでの眺望はまあまあです。この日は粟島がうっすらとですが見えていました。
蛇逃峠(じゃのげとうげ)の東屋です。下の小俣集落では「蛇逃が見えてきたら雪が降らない」という諺があるそうな。でも蛇についての言い伝えは無いようです。
帰りはここから別ルートで下山します。
この画像ではよく分かりませんが「新潟懸山形懸境」と書いてあります。
「鷹待ち場」です。この辺りでは多くの鷹が獲れたんだそうな。ちなみに昔は鷹の羽は弓矢に使われる立派な軍事物資だったんだそうです。
転落防止柵でしょうか。画像右はかなりの切り通しになっています。
この坂を登りきった所が頂上だろうな。と思ったら・・・
ビンゴ!当たりです。
とりあえず記念撮影。
展望台がありました。少し腐れかけていますが立派です。
ひょっとしたら「やまとのくに」と読むのかもしれないともおもったのですが、 「日本国」は「にほんこく」と読んで良かったようです。
< |
展望台からの360度パノラマです。立ち木が多くあまり良くありません。でも粟島が薄っすらと見えていました。
S氏が昼食の用意をしてくれています、カップラーメンですけど いつも有難いです。
でもってその間僕は何をしていたかというと・・・
無線
6mで運用する予定でしたがアンテナを張るのが面倒で2mで運用しました。が・・・
無残な結果でした
山頂にはこのような非難小屋もありました。入り口には『日本国山頂休息所』とあります。
中はこんな感じです。寝袋を持って来れば夏なら泊まれそうです。
さて山頂の雰囲気を十分楽しんだので下山です。
蛇逃峠まで戻ります。
下って東屋の向こう側にある「蔵王道登山道」を下ります。
画像ではよく判りませんが、けっこう急です。登りでこの道を使うのは僕は嫌だなぁという印象でした。
下りもほぼ終わりになった頃、『蔵王堂』がみえます。
元和元年(1615)大阪夏の陣に小俣集落の佐藤源左衛門が徳川方として徴集された折、奈良は吉野に詣で「蔵王堂」より体を護し、これを背負って村に帰ったと古書にあるそうな。
『蔵王堂』から1分もかからないで登山口に着きました。
長閑な風景が広がっています。
少し歩くと出羽街道「小俣宿」に入ります。
凄い名前ですが無人の露店だと思う・・・。何も売ってませんでした。
登山せず小俣宿だけをのんびり散策するのもいいかもしれません。
明治維新では戊辰戦争の戦場となって集落のほとんどが焼き払われてしまったそうですが、その跡に再建されたそうな。
表札みたいな屋号の看板です。
郵便局がありました。その名も『日本国麗郵便局』!消印が欲しかったのですが、GW中はお休みです。残念!
終わり