思考の踏み込み

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ルーツ2

2013-12-07 14:29:24 | 
気が枯れるで汚れ、という一つの文が単語化されてゆくことは、断定はできないが、日本語にあっては自然なことといえよう。

現代でも ウザいとかキモいなど感情が露わに出た言葉などでその原理はみてとれる。

やや本質からはそれるが、濁音や撥音などは日本語がこうした結合から成り立つ以上、発音する際に言いやすくするために生まれたものであると考えれば、明治以前における清音表記というのは正しいことであったのだろうと思う。

ただ真澄鏡などの言霊学にあっては濁音も含めて75声というから、これに関しては簡単には言えない。



なぜなら、象形文字である漢字の成立を分解していくこととは違い (これはこれで底知れぬ哲学と思想があり、興味は尽きないが…) 音に関して分解していく限りはただ一つの音に行き着くと思うからである。

そうなれば、当然言霊学という歴史を掛けて研究されてきたものを簡単に切り捨てることは愚かであろう。


" ー 真澄鏡(マソカガミ) 見とも言はめや 玉かぎる 岩垣淵の 隠りたる妻 "

柿本人麻呂



こうして考えると、音と人体、心理の関連についても考えてみる必要が出る。
一つの音を発したときに声帯はどう動き、身体のどこに響き、心理にどう作用しているか。
母音と子音では質として何が異なるのか。
赤ん坊が初めに発するのはどの種類の音か。
日本語にあって初めに生まれたものはどういう音の単語だろうか。

この方法なら日本語に限らず、多くの地域で言語の本質に近づけるのではないだろうか?


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