思考の踏み込み

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形影神36

2014-10-15 05:36:05 | 
ー 終わり、つまりは死んでどうなるかなどは、始めに原 (たずね) てみてようやくわかるもの。

始めとは全ての始まりのこと。

正しき目と感覚でもって、天を仰ぎ地を観ずれば、やがてそれは少しずつ姿を顕し、応えてくれるもの。





そう語って、"記憶" の言葉に淵明が続ける。いつの間にかこの両者の発言は
"順逆" が入れ替わっていた。


「深い呼吸と静かな "精神" でもってその、始めを見つめれば、やがてそこに "一" という数がみえてくる。

一がみえれば、それが万物へと動いていった変化がみえてくる。

そうすればその変化を為した "力" が正体を顕しはじめる。

その "力" を追えば、"終わり" においてそれがどう動くのかもみえる。
さすれば "魂魄" の先の言葉の意味もわかってくるだろう… 。」


「精神…。」

ここへきて初めてはっきりと使われたその言葉に "意識" が反応した。


「精神とは!」

ー 何の謂でしょうか?




淵明は即答した。

「形、心、影…、そして魂魄 、ともかくもこの場に集い、"領域" を同じくするモノ達の総体によって生じたある種の "力" の名だ。」


「それは…。
新たに生まれたモノ…?」


「さにあらず。正確には "一" の新たな段階における変化とでもいうべきか…。」

さすがに淵明も表現の容易なきを覚えながら、しかし言葉を慎重に選んでさらに言った。

「そう ー 。それは古来より "霊" と呼ばれてきたモノだ!」


「…! 」


「だが多くの者は霊というと、"死霊" のコトしか知らぬ。
それも現世に深い怨念や未練によって姿をとどめた哀れなるモノ達についてばかりだ。
確かにそういうモノは人目につき易い。いや、人目につきたくて、その怨念を理解して欲しくて、そういう不自然な "存在" として有り続けている。


…それは余りにも悲しい "修羅" 。


本来の摂理に存在を委ねれば、そんな修羅で苦しむ必要はないのだが、現世における感情の "記憶" というのはそれほどに強いということなのだよ。

彼らは悲しみの余り、人に憑いたり色々な悪さをしたりしがちだが、それを君たちは恐れてはならん。





遺された者は、その悲しみを受け止め、彼らを自然の摂理に返してやらねばならん。
彼らは残った "念" だけで存在している実体無き儚き存在だ。
それに怯えれば付け込まれるが、肚を据えてかかれば彼らは影響力を及ぼすことはできん。

むしろ彼らの念を払い、安らかに "散" に向かわせてやれる。

本来死者の供養とはそういうモノ…。」


「念…。」

意識がつぶやく。
その横で "知性" が別の事を言う。

「私は… 、死者の供養などはむしろ現世に遺された側の者の哀しみを鎮める為の様式だと思っておりましたが…。」

「もちろんそういう側面も強い。だがそれは結局においてどちらも同じことであるよ。」

淵明が知性に答えた。

「同じ?」

意識がまたつぶやく。

「念…?」






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