" 人の雅は情け枝 天(アメ)より授く
魂(タマ)と魄(シイ) 結ぶ命の
魂中心(タマナカゴ) 生む血は肝ぞ
魄の根葉 腎心葉(ムラトココロバ)
肺結ふ(フクシユフ) 四臓脾や(シクラ
ヨコシヤ) 根の六臓(ムクラ) 渡る
ミヤビが物を知る ー "
「ホツマツタヱ 17紋」
例えば ー
"気が枯れる"で「汚れる」。
"気が去る"で「腐る」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/16/e5710a116e7b591709fd7079dcca16d4.jpg)
こうした例は日本語においてはいくらでもある。
仮にこの場合の"気枯れ"などが偶然、あるいはそうでないにしても、日本人の得意な韻象からくるイメージと哲学的な意味での感覚的な一致だとしても、全てをそうだとみるべきではないだろう。
また漢音や呉音、さらにはそれらが混ざった後に複雑に進化した造語、造音との区別を突き詰めていくとする。
残った言葉を分解してみる。
上の例でいけば、き(気)が枯れる、で汚れである、と定義した思想もしくは思考がまず母体として浮き上がる。
すると「き」という音が古来の日本語だとするとー これを仮に" 大和音" と呼んでみる ー 「気」という概念と同じかあるいはかなり近い概念があったということになる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/a5/c020aa7a4e9c91a84ba96b7a9918c72c.jpg)
(発音の近さや、訓読みがないことからも"気"は文字、音、意味ともに輸入されたものかもしれないが、まったくその概念がなかったとは思えない)
大和音という言葉を仮に使ってみたが、この視点からみてゆくと日本語発生の秘密に近づけるかもしれない。
魂(タマ)と魄(シイ) 結ぶ命の
魂中心(タマナカゴ) 生む血は肝ぞ
魄の根葉 腎心葉(ムラトココロバ)
肺結ふ(フクシユフ) 四臓脾や(シクラ
ヨコシヤ) 根の六臓(ムクラ) 渡る
ミヤビが物を知る ー "
「ホツマツタヱ 17紋」
例えば ー
"気が枯れる"で「汚れる」。
"気が去る"で「腐る」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/16/e5710a116e7b591709fd7079dcca16d4.jpg)
こうした例は日本語においてはいくらでもある。
仮にこの場合の"気枯れ"などが偶然、あるいはそうでないにしても、日本人の得意な韻象からくるイメージと哲学的な意味での感覚的な一致だとしても、全てをそうだとみるべきではないだろう。
また漢音や呉音、さらにはそれらが混ざった後に複雑に進化した造語、造音との区別を突き詰めていくとする。
残った言葉を分解してみる。
上の例でいけば、き(気)が枯れる、で汚れである、と定義した思想もしくは思考がまず母体として浮き上がる。
すると「き」という音が古来の日本語だとするとー これを仮に" 大和音" と呼んでみる ー 「気」という概念と同じかあるいはかなり近い概念があったということになる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/a5/c020aa7a4e9c91a84ba96b7a9918c72c.jpg)
(発音の近さや、訓読みがないことからも"気"は文字、音、意味ともに輸入されたものかもしれないが、まったくその概念がなかったとは思えない)
大和音という言葉を仮に使ってみたが、この視点からみてゆくと日本語発生の秘密に近づけるかもしれない。