また、想定を遥かに超えた長さになってしまった。
モノローグで書いていれば半分以下ですんだかもしれないが、ダイアローグという形式がこれほどに幅を取るとは思わなかった。
自然、その形式の選択による制約も多く、もちろん内容が内容であったこともあり、今までで一番書いていて苦心したというのが正直なところである。
「心身一元論」と「心身二元論」といずれが是か非か、というのは古く紀元前から議論されてきたテーマであるが、その結論ははっきりしていない。
私自身も、感覚的にはどう考えても一元論の立場ではあったが、どうにもそれでは説明しきれない現象があって、長いことその事について考えてきた。
その考え方は、頭だけで考えることはできる限り控えた。
必ず身体感覚と繋げて思考する様にした。
その意味で、既存の心身の相関関係についての議論とは趣を異にするとは思っている。
心身がいかに密接かという事は身体感覚を追求すればするほど、一つである事がわかってくる。
例えば、自らモノを考えて喋る者の手は必ずそれに伴って動く。
つまり手の動きを伴わない者の語りは、他人の意見を真似ているだけという観察が可能になる。
もっと目を養えば、例えばー 僅かな瞳の動きや声の速度や高低、肩の微細な傾き、呼吸の速度など……。
身体のほんの些細な動きから人の心との関連はかなりの部分で読み取ることが可能である。
なぜなら心身のどちらかの動きは、必ずもう一方の動きも伴っているからである。
であるのに、その動きとは別の "感覚" が存在する。
それは一体何なのだろうか?
もしかすると、我々が "心" とひとくくりにしている範囲の中に違う要素を混ぜているのではないだろうか?
それが二元論を生む理由ではないだろうか?
…そんな事が今回の "思考" のきっかけであった。
その原因を「魂」という一点を設けることで、自分の中で腑に落ちる説明に持っていってみたのだが、そもそも魂などはあるのかないのか、私などにわかろうはずがない。
だから今回の投稿はまったくのフィクションであると思って読んで頂ければそれでよい。
だが魂があるかないかー など突き詰めなくとも、在るー とそう思って生きると少し生き方が変わってくるものでもある。
だから私は、まあおそらくそういう存在は在るのだろうー と、そういう立場でいるつもりであり、スピリチュアル世界の方々の様にその存在の真否を強要したりするつもりはない。
ともかくも今回の内容については、初めて陶淵明の「形影神」という作品に出会って以来、なんとなくずっと自分もその形式を真似てみたいと構想していたモノであり、それを今回書けたことにはある程度満足している。
本当はもう少し対話に参加者を増やしたかった。
"延髄" とか、"大脳新皮質" 、"松果体" あたりは登場させたかったが、脳科学がまだ研究途上であることと、その分野への自分の不勉強さがそれを思いとどまらせた。
他にも "潜在意識" 。
これは前半で登場する様な事を書いておきながらついに出せなかった。
潜在意識の奥深さが、まだ私などには掴みきれないからで、その状態でそれを擬人化させて発言させるという事は早い段階で断念せざるをえなかった。
それは "無意識" についても同じである。
それと多くの "感情" 達 ー 嫉妬や喜びや悲しみ、愛… 。
これらも登場させたら面白かったとは思うが、その場合余りにも繁雑になってしまうので、これはそういう理由で避けた。
陶淵明という人の描写の仕方も、ずいぶんと実際の淵明像からは離れてしまったが、内容の進行上それは犠牲にせざるを得なかった。
まあその程度は大目に見て頂きたい。
すでに述べた様に「形影神」という形式へのオマージュは、10年以上も前からなんとなく構想していたとはいえ、本当のところはまだ私程度の者が書くには早い内容であったというのも、今現在の本音でもある。
そんな内容の投稿を最後まで読んで下さった方に感謝。
" … 但 (た) ダ 恨ムラクハ
謬語 (びゅうご) 多カラン。
君ヨ 当 (まさ) ニ酔人ヲ
恕 (ゆる) スベシ… 。 "
モノローグで書いていれば半分以下ですんだかもしれないが、ダイアローグという形式がこれほどに幅を取るとは思わなかった。
自然、その形式の選択による制約も多く、もちろん内容が内容であったこともあり、今までで一番書いていて苦心したというのが正直なところである。
「心身一元論」と「心身二元論」といずれが是か非か、というのは古く紀元前から議論されてきたテーマであるが、その結論ははっきりしていない。
私自身も、感覚的にはどう考えても一元論の立場ではあったが、どうにもそれでは説明しきれない現象があって、長いことその事について考えてきた。
その考え方は、頭だけで考えることはできる限り控えた。
必ず身体感覚と繋げて思考する様にした。
その意味で、既存の心身の相関関係についての議論とは趣を異にするとは思っている。
心身がいかに密接かという事は身体感覚を追求すればするほど、一つである事がわかってくる。
例えば、自らモノを考えて喋る者の手は必ずそれに伴って動く。
つまり手の動きを伴わない者の語りは、他人の意見を真似ているだけという観察が可能になる。
もっと目を養えば、例えばー 僅かな瞳の動きや声の速度や高低、肩の微細な傾き、呼吸の速度など……。
身体のほんの些細な動きから人の心との関連はかなりの部分で読み取ることが可能である。
なぜなら心身のどちらかの動きは、必ずもう一方の動きも伴っているからである。
であるのに、その動きとは別の "感覚" が存在する。
それは一体何なのだろうか?
もしかすると、我々が "心" とひとくくりにしている範囲の中に違う要素を混ぜているのではないだろうか?
それが二元論を生む理由ではないだろうか?
…そんな事が今回の "思考" のきっかけであった。
その原因を「魂」という一点を設けることで、自分の中で腑に落ちる説明に持っていってみたのだが、そもそも魂などはあるのかないのか、私などにわかろうはずがない。
だから今回の投稿はまったくのフィクションであると思って読んで頂ければそれでよい。
だが魂があるかないかー など突き詰めなくとも、在るー とそう思って生きると少し生き方が変わってくるものでもある。
だから私は、まあおそらくそういう存在は在るのだろうー と、そういう立場でいるつもりであり、スピリチュアル世界の方々の様にその存在の真否を強要したりするつもりはない。
ともかくも今回の内容については、初めて陶淵明の「形影神」という作品に出会って以来、なんとなくずっと自分もその形式を真似てみたいと構想していたモノであり、それを今回書けたことにはある程度満足している。
本当はもう少し対話に参加者を増やしたかった。
"延髄" とか、"大脳新皮質" 、"松果体" あたりは登場させたかったが、脳科学がまだ研究途上であることと、その分野への自分の不勉強さがそれを思いとどまらせた。
他にも "潜在意識" 。
これは前半で登場する様な事を書いておきながらついに出せなかった。
潜在意識の奥深さが、まだ私などには掴みきれないからで、その状態でそれを擬人化させて発言させるという事は早い段階で断念せざるをえなかった。
それは "無意識" についても同じである。
それと多くの "感情" 達 ー 嫉妬や喜びや悲しみ、愛… 。
これらも登場させたら面白かったとは思うが、その場合余りにも繁雑になってしまうので、これはそういう理由で避けた。
陶淵明という人の描写の仕方も、ずいぶんと実際の淵明像からは離れてしまったが、内容の進行上それは犠牲にせざるを得なかった。
まあその程度は大目に見て頂きたい。
すでに述べた様に「形影神」という形式へのオマージュは、10年以上も前からなんとなく構想していたとはいえ、本当のところはまだ私程度の者が書くには早い内容であったというのも、今現在の本音でもある。
そんな内容の投稿を最後まで読んで下さった方に感謝。
" … 但 (た) ダ 恨ムラクハ
謬語 (びゅうご) 多カラン。
君ヨ 当 (まさ) ニ酔人ヲ
恕 (ゆる) スベシ… 。 "
残念ながら
間違いだらけのこの言い分。
酔っ払いのこと
ひらにご容赦願いたい。
「飲酒二十首」其ノ二十より。
間違いだらけのこの言い分。
酔っ払いのこと
ひらにご容赦願いたい。
「飲酒二十首」其ノ二十より。
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