思考の踏み込み

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形影神 并びに序

2014-09-08 07:32:43 | 
六朝時代の東晋に陶淵明という詩人がいた。あるいは中国文化史において、最も輝いていた時代かもしれないこの ー 六朝文化を代表する文人である。



"帰りなんいざ、田園まさに荒れなんとす なんぞ帰らざるー "

「帰去来の辞」で有名であるが、他にも桃源郷を描き出した「桃下源記」や「五柳先生伝」、そして妖艶な愛情の描写でもって異色の作品たる「閑情賦」などがある。

田園詩人であるとか、老荘思想の徒であるとか、酒の詩人とかいわれるが、そう簡単には括れない懐の深さを淵明の世界は有している。

こんにちの中国世界の有様を見て、しかもマスメディアが伝えるところのごく一部の情報でもって、かつての栄光ある中国文化の全てまでを毛嫌いする事は愚かであろう。
それは我が国にも当てはまる事であるが、彼らがかつて到達していた文化レベルは、特に唐代までにおいて ー 永い人間の歴史の中でも、燦たる部分が多い。

中国人じたいも忘れさろうとしているのかすでに忘れ去ってしまったのかどうかは実際、現地を歩いて回らねばねばわからないが、その影響力において ー 東アジア全体に及び、日本もまたその範囲内であった事も含め、彼らの文化の中には、今、こういう時代だからこそ我々東アジア人にとって見直すべきモノが少なくない。


まあそんな能書きはどうでもよいのだが、陶淵明という詩人は私の最も好きな文学者の一人である。


その中に「形影神」という作品がある。





"形" ー 即ち身体もしくは実体と、"影" ー 虚像とに対話をさせ、そこへ "神" つまり精神が仲介に入るというダイアローグの形式をとった面白い詩である。

かつて白居易は "陶濳ノ體ニ傚 (なら) フ" と題して16の詩を残したが、今回、この作品へのオマージュの意味で私自身も、このところずっと考えていた身体と心、あるいは魂の関係性について ー 対話形式でもって思考を踏み込ませるという事をしてみようと思う。
ご興味のある方にはお付き合い頂こう。

ここで展開される対話には淵明の作品よりも多くの登場者が現れるかもしれない。
それらがどんな性質の者達なのかは、対話が進む中でハッキリしてくるであろう。
せっかくなので対話には陶淵明も泉下より呼び起こし、ご足労願い加わって貰おうと思っている。
爺さん飲み過ぎないといいのだが。