思考の踏み込み

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前田智徳36

2014-09-01 00:26:28 | 
さて、もう一度考えてみようー 。

前田智徳の追求した理想の打球とは一体どんなものであったのか?

それには前田智徳の極めて高いレベルにおける、打撃技術と速度に釣り合うだけの鋭く厳しい投球がまずなければならない。それを彼が求める完璧なプロセスで捉えるというものだったのではないだろうか。
つまり彼の理想の打球には、まず理想の投球がなければならない。




その全てが完璧に揃うことは確率的には天文学的な数値が出る程に実現性の低いモノかもしれないが、それが果たされたときの統合感は計り知れないだろう。

その時身体には極めて高次元の凝縮感が生ずると思われる。
それは仏教徒が悟りといって表現する世界に近いところまでいくのではないかとさえ思う。

たかだか野球というスポーツでそこまでの世界を拡げてみせたという意味でやはり前田智徳は、とてつもない天才であると言える。
そしてまた彼が修行僧とかサムライとかに例えられる事も、やっている作業の内容やそのための自己への厳しさが同じ次元である以上、正確な指摘であることがわかる。



従ってその理想の打球とは飛んだ角度とか強さとか方向などであろうはずはない。
ましてホームランかヒットかなんて問題にならない。

また前田自身が語らない理由も当然かもしれない。言葉で説明するのがきわめて困難な、感覚的な世界の理想であるからだ。

実際前田はホームランを打っても首をかしげ、納得いかない表情をよく見せるが、内野ゴロで凡退して満足そうな顔をする事がよくあった。

アウトかセーフか、ヒットかホームランか、なんて二元論的な結果の世界は高次元の統合による一元的な世界からみればなんの価値もない。





ー 前田智徳とはそういう打者であった。