猫のやぶにらみ

こよなく猫にあこがれる中年オヤジのブログです

上野千鶴子による「結婚の定義」

2005-03-24 | ネコ的思索
上野千鶴子と言えば東京大学の教授でフェミニズムの大御所。寄らば切るぞ、とばかりに舌鋒鋭く、世の中でフツーと思われていることを切って切って切りまくる、こわ~いおばさん、という印象。

何年か前に私の住む地方にも講演にきたので聴きに行ったが、あにはからんや、非常に面白い講演で、会場は再三爆笑に包まれた。「抑圧された女、妻、母の開放」と言えば、妙に身構えてしまうが、凄腕の料理人が研ぎ澄まされた包丁で切り分け、盛り付けていくと、切られた魚は自分が切られたことにさえ気づかずに、いつのまにか刺身になって、皆さん美味しくいただける、という訳だ。

その上野千鶴子による「結婚」の定義、というのがすごい。

「自分の身体の性的使用権を生涯にわたって特定の異性に対して排他的に譲渡する契約」(「ザ・フェミニズム」から引用)

というのだ。この定義を見て「ツッコミどころ満載」と思ったあなた、上野千鶴子をあなどってはいけません。下手にいちゃもんつけると完膚なきまでに論破されます。

女性開放思想というのは、「平等を求める思想というよりも自由を求める思想だったはず」と上野千鶴子は言う。「自由を求める、というとき、何の自由がいちばん根源かというと、自分の身体に関する自由。『性的自由』って自由の根源ですよ」と。

平等といえば、例えば戦前の日本では姦通罪というのは女の側の不義だけが罪とされていて、「片務的」だったのだが、それが戦後は男女平等に罪とされ、「双務的」となった。これに噛み付いて曰く、「求めたのは相互の拘束という平等だったのか」そうじゃなくて「相互の自由」はどこ行ったー、と。

自覚のあるなしを別にして抑圧者とされる男側からいえば、「自分の身体に関する自由」を大部分奪っているのは「仕事」なのであって、しかもそれは決して悪いことではなく、むしろ、仕事から自由な人ほど白い目で見られる、という現実がある。「自分の身体の職業的使用権を定年までにわたって特定の会社に対して排他的に譲渡する契約」のことを「終身雇用制度」と定義すれば、こんな契約する人のことなんて、上記の「結婚」同様、上野千鶴子なら「理解できない。まったく理解できない」と言い出すだろう。

しかし、そもそも皆、そんなに「自由」を求めているのかどうか自体うたがわしいのだ。結婚してなきゃ誰とでも、とっかえひっかえ恋愛できて(自由で)楽しいかといえばけっしてそうではないだろうし、仕事やめれば自由に好きなことができるかといえば、そうでもない。

そういえば先の結婚の定義で「扶養の義務(権利?)」については触れられていないが、この点はどうなんだろうか?お互い扶養の義務も権利もない(子供は別)結婚というのは、フリーの仕事人がやりたい仕事だけを請け負うみたいでちょっと格好いいではないか。

「自由」の代償は「忠誠」である。猫は自由を求め、犬は忠誠を誓う。