猫のやぶにらみ

こよなく猫にあこがれる中年オヤジのブログです

菅総理退陣

2011-08-30 | 経済・社会
菅さんがついに退陣し、野田さんにバトンが引き継がれた。菅総理に期待した一人として、若干のコメントを書く。

①振り返って見れば、3・11以前の菅総理は影が薄かった。仙石官房長官の剛腕ぶりが目立つばかりで、菅さんの姿があまり想い出せない。それにしても尖閣列島問題の対応はひどかった。仙石さんのせいにばかりは出来まい。最高責任者は総理だから。

②3・11以降の菅さんはそれなりに頑張ったと思う。未曾有の国難に直面して、全力を挙げて課題に取り組んだものと思う。そしてそのことにより、彼のもつ良い面も悪い面も一気に増幅されて白日の下に晒された。その結果が四面楚歌だったのだから、当人としても誰を恨む訳にもいかないだろう。

③復興対策については、副総理兼復興担当相に小沢一郎を抜擢するくらいの荒業をみせて欲しかった。そうすればずい分と復興のスピードも違っていただろう。彼の度量の狭さが仇になった。

④原発対応については本人としては一番力を注いだものと思われる。福島第一原発の吉田所長とは事故直後現地にヘリで訪問して以来、直接ひんぱんにやりとりする仲になったという。吉田所長は東京工大の後輩でもある。

⑤脱原発路線を明確にしたのは高く評価したい。運転中の浜岡を停め、休止中の原発の再稼働のハードルを上げた。これにより玄海原発の再稼働はとん挫した。

⑥ただし、絶対に許せないことが一つある。それは、SPEEDI(スピーディ)のシミュレーション結果を事故直後、公表しなかったことだ。これは法的に罰せられるべき行為だと思う。綿密な検証を行って責任の所在を明らかにして欲しい。首相の責任はもちろん逃れられないものと考える。

⑦財界や「原子力ムラ」と本気で戦おうとした姿勢は、これぞ菅さんの本領発揮だ。こういう敵に対する時の菅さんはかなり手ごわい。今回、一敗地にまみれたようでもあるが、果たしてどうか。この数ヶ月、菅さんは、レームダック状態とはいえ、政権トップにいて、「原子力ムラ」の奥の奥、裏の裏まで、その実態を「見た」はずだ。総理の椅子は降りたものの、後継総理に野田さんを担ぐことに成功し、一定の影響力は今後も維持するとみるべきであろう。さて、新政権の下、エネルギー政策の大転換、すなわち、「原子力ムラ」の解体が進むかどうか、注視したい。

⑧それにしてもヒドイと思ったのは、菅政権を追い落とすための政局カードに「震災復興」がもてあそばれたことである。野党はもちろん、小沢一派にしても、菅降ろしのために震災復興を人質にしたのである。「菅総理の下では震災復興が進まない」と言って菅降ろしに精力を注ぐ国会議員の姿には本当にウンザリした。

⑨一日も早く震災復興を進めることは与野党関係なく、誰が総理であろうと関係なく、全員賛成のはずだ。菅降ろしの本当の原因は、原発対応や小沢外し、そして左翼性に対する反発であろう。菅降ろしをするなら、そうした論点を堂々と表に出して批判して欲しかった。

⑩新政権の下では、与野党ともに、震災復興だけは一致協力して進めて欲しい。そして、それとは切り離して、喧々諤々、大いに議論した上で、菅さんの言う「原発に依存しない社会」を目指して、一歩一歩着実に進んで行ってもらいたい。

とてもとても心配なこと

2011-06-21 | 経済・社会
「福島第一原子力発電所事故を踏まえた他の原子力発電所におけるシビアアクシデントへの対応に関する措置の実施状況の確認結果について」
平成23 年6 月18 日
原子力安全・保安院

「全ての交流電源が喪失した時において、炉心損傷等により発生した水
素が原子炉建屋内に漏れ出した場合、原子炉建屋内への多量の水素の
滞留を防止するため、原子炉建屋屋上に穴あけにより排気口を設ける
こととし、穴あけ作業に必要な資機材(ドリル等)を配備し、または
手配済みであることを確認した。」(6ページ目)

上記は浜岡以外の原発は安全だから運転再開してね、という海江田経産相の要請の根拠になった、原子力安全・保安院による安全性確認のための調査結果報告書の一部です。

万が一全電源喪失した場合は、原子炉建屋屋上にドリルで穴をあけて水素を逃がして爆発を防ぐ。そのためのドリルを配備したから安全だと!!


そしてこれがその作業訓練の様子です。(別添4ページ目)

いざという時は原子力建屋の屋上でこういう感じでこんな作業させるから福島みたいな水素爆発はもう起こりません・・・!?!?

大丈夫なんでしょうか!

もしも福島第一原発に、この小さなドリルさえ備えてあれば、そして勇敢な作業員さんが建屋の屋上に登って首尾よく穴をあけていたら、あの水素爆発は防ぐことができたということなのでしょうか?

「水素爆発対策としてドリルを備えること」、これで安全対策できました、安全ですって・・・。原子力安全・保安院の人たち、正気なんでしょうか。海江田大臣、ほんとにこれでOKと思ってるのでしょうか。何かほんとにほんとに心配になってきました。













「バケツの穴」

2011-05-16 | 経済・社会
福島原発の様子が気になってしょうがありません。

これから先、どうなるんだろう、どうすればいいんだろう。

昔、NHK の「みんなのうた」でやっていた「バケツの穴」という歌が脳内BGMと化して絶え間なく流れ続ける今日この頃・・・。

♪♪ バケツに穴が、穴が開いてる~ ♪♪


菅直人賛

2010-06-05 | 経済・社会
菅直人さんが総理大臣になる。感無量である。なぜかというと、今から30年前、やぶ猫がまだ学生の頃、生まれて初めて選挙権を行使したのが、1980年の衆議院選挙で、その時に投票したのが、菅直人さんだったからだ。そう、田舎から上京してきて、地縁も血縁も何もない三鷹市のアパートに住んでいたので、誰に投票するかは、自分で決めたのだ。自民党には何となく入れたくなかったし、社会党は論外。どうしようかと迷っていると、菅さんの姿が目にとまった。

カッコよかったな!

とにかくカッコよかった。それで一票! そしたらなんと当選したのだ。菅さんにとってはそれが初当選。それまで確か3回くらい落選を繰り返していて、決して下馬評も高くはなかったと思う。自分が初めて投票した人が、初当選を飾るというのは、なんだかとても興奮したことを覚えている。やぶ猫は卒業と同時にすぐ引っ越したので、その後、菅さんに投票する機会は一度もなかったが、いつかは日本のトップに立って欲しいと、ずっと気にかけていた政治家の一人だ。

苦労人ゆえに身に付けた感のあるマキァベリズムに惑溺しないよう気をつけて、
本来の持ち味である、「正義感」に満ち溢れた、
「カッコいい」総理大臣になって欲しいものだ!

二大政党制は日本の本来の姿!?

2009-09-22 | 経済・社会
ついに民主党が政権交代を成し遂げて、日本にも本格的な二大政党制が訪れようとしている。あの郵政選挙のときでさえ、民主党に一票を投じた(郵政民営化には大賛成だったが)やぶ猫としては、まことに嬉しいことである。

ところで、一部には「果たして日本に(政権交代可能な)二大政党制は根付くのか」という懐疑的な見方があるのも事実である。これはまあ、今後、10年ー20年たってみないと分からないことではあるが、これに関連する、興味深い見方を披歴された方がいらしたので、紹介してみよう。

時は昭和15年8月、日中戦争たけなわのこの時期、近衛首相率いる政府は来るべき太平洋戦争に備え、国を挙げて戦時体制を強化しようとしていた。「高度国防国家建設」のため、「官民共同の挙国的国民組織」結成についての構想を発表したのである。これがのちに「大政翼賛会」となって、当時の二大政党、政友会と民政党は消滅した。

近衛のこの構想を耳にして、昭和天皇は「議会軽視につながりはしないか」と懸念を示し、こう言った。

「我が国の歴史を見るに、蘇我、物部の対立抗争以来、源平其の他常に二つの勢力が対立している、この対立を議会において為さしむるのは一つの行き方で、我が国では中々一つに統一ということは困難の様に思はる」

「天皇」という立場から見た日本史観とはこのようなものなのかと感心した。

もちろん昭和天皇の上記の認識は事実とは異なる。300年近く続いた徳川幕府の治世を挙げるだけでもそれは明らかだ。もっともそんなことは先刻承知の上での発言だろう。昭和天皇は「幕府」というのは、要するに一党独裁だと(正しく)認識しており、それは日本という国柄の本来の姿ではないと切って捨てたのだ。

近衛の大政翼賛会構想が「幕府」のような存在になって天皇家を軽んずることを危惧したのか、それともナチスドイツのように一気にファッショ化が加速することを危惧したのか、その真意は想像するしかないが、英国流の立憲君主たらんと生涯自らを律していた昭和天皇にとって、日本のあるべき姿として、一党独裁が好ましからぬ体制であるということははっきりしていたのであろう。

戦後、自民党は長く政権にあり過ぎた。長い太平の中で、徳川幕府と同様、腐敗し、人材の枯渇にあえぎ、時代の変化についていけなくなってしまった。

民主党の政権が今後、どれだけ続くか分からないが、長くても10年で十分だと思う。自民党にも大いに頑張ってもらって、二大勢力が互いにぶつかり合うという「蘇我、物部の対立抗争以来」の日本の歴史の本来の姿(!)を取り戻して欲しいものだ。

宮城まりこさんの文体

2007-03-07 | 経済・社会
日経新聞の人気連載「私の履歴書」を執筆中の宮城まりこさんの文章が、素晴らしい。

企業経営者や学者、政治家、芸術家等々、各界で功なり名を遂げた有名人が自ら筆をとって、その半生を振り返る「私の履歴書」は私も長く愛読している。中には退屈極まりない連載もあるけれど、現在進行中の宮城まりこさんの「私の履歴書」は出色である。

私は宮城まりこさんのことはほとんど何も知らない。「ねむの木学園」園長という肩書きで書いておられるが、それがどういう「学園」なのかということも知らない。

そんな宮城さんの連載に目を奪われたのは、その文章が、というより、その文体が素晴らしいと感じたからだ。

文体とは何か、と言われても明快な答を持ち合わせている訳ではない。しかし、いろんな書き手の書いたものを読んでいると、その内容とは別に、書き手に特有の、一貫した「文体」というものがあるように思えてくる。

では、「文体」と内容というものは截然と区別できるのか、というと決してそうではなくて、これは渾然一体、不即不離の関係にあると思う。頭の中に何かしら表現したい内容というものがあって、それを直接取り出して見せるわけにはいかないので、例えば文章というかたちで表現する。

それを読む人が最初に目にするのは、文章であって、内容ではない。あるいは文章というかたちで表現されようとした内容、と言ってもいい。

私を見る人は洋服を着た私を見るのである。素っ裸の私こそが本当の私だとどうして言えよう。私が選ぶ服装には私の何か「内容」にかかわるものが大なり小なり表現されているのに違いない。

文体のことを英語では Style という。宮城まりこさんのスタイルは上品で、気高い。丁寧だがすましていない。優しげだが、決して弱くない。凛とした美しさに満ちた文体である。

日経新聞という、面白くもおかしくも無い経済専門紙の紙面に、このような文章が掲載されるというのは、画期的なことである。毎日、この連載がとても楽しみだ。

・・・ということを奥さんに話して聞かせたら、「宮城まりこね、吉行淳之介と暮らしてたんだから、きっとそれで文章が上手いのよ」と言った。

そうなんですか、それは全然知りませんでした。しかし、そんなこと関係ないと思いますね。夫が野球選手だったら奥さんまで野球が上手になりますか?逆の場合もありますよ。うちの奥さんはピアノの先生だけど、私は全然、弾けないし。。。

ということで、宮城まりこさんのあの素晴らしい文体は、彼女の素晴らしい人格の発露によるものであると、私は信じて疑いません。もちろん、その人格形成において吉行淳之介氏が何らかの影響を及ぼした可能性は否定できませんが、そのあたり、この連載でどのように扱われるのか、ますます楽しみになってきました。

勉強を選んだ若者は、社会とどう向き合うか

2007-02-09 | 経済・社会
「ハンカチ王子」こと斉藤祐樹君、卓球の福原愛ちゃん、アイススケートの浅田真央さん・・・。全国に名をとどろかせ、多くの人々の賞賛の声を一身に受けるスーパー高校生。

スポーツや、音楽などの世界ではこういうことは珍しくはない。いつの時代でもその時のヒーローやヒロインとなる、若きスポーツ選手や音楽家はいる。

高校生くらいの年回りで全国的に有名になる、そうした傑出した選手や音楽家たちは、生まれながらの才能に加え、幼少の頃からかなりストイックに、厳しい修練を積んできたに違いなく、そのことがまた、惜しみない賞賛の的になる。

それらスーパー高校生の地元でも、彼らの存在とその成功が、地元の誇りであり、皆で応援しようという機運が盛り上がる。甲子園への出場権を得た野球部員たちは学校の誇りであり、郷土の誇りだ。校長はもちろん、市長や県知事が激励し、学校関係者のみならず、市民や県民の熱い声援を背に、勇躍、甲子園に向けて旅立つのだ。

スポーツなどでは、このようなことが普通に行われているのに、「勉強」の世界ではこういうことがないのはなぜだろうか?

たとえば、
学校で一番の成績を修めた生徒が全校生徒の前で校長先生から誉められたり、全県模試でトップの成績を修めた生徒が、県庁に招かれて知事から祝福されたり。全国模試でトップレベルの成績を修めた地元期待の俊英が、最難関といわれる大学受験に臨む時は、駅頭で母校の同級生・先生らはもちろん、地元テレビ・新聞記者などにもみくちゃにされながら声援を受けて、大勢の人々に見送られ・・・!

勉強の方面で、天賦の才に恵まれ、しかも人並み外れた努力を続けて、最高得点を叩き出した若者も、学校の誇り、地元・郷土の誉れという賞賛に値するのではないだろうか。

ところが、実際はそうではない。上記のような発想は、受験競争をあおり、学歴差別を助長し、子供たちへの負担を一層増やすことになる、ということで、否定されているからだ。

このような環境のもとで大人になっていく、勉強の世界で頑張った優秀な若者は、どのような気持ちでその後の人生を歩んでいくのだろうか。

わき目も振らずに勉強一筋に頑張ることは「かっこ悪い」という価値観が浸透している。もっと踏み込んで、そんなことは「好ましくない」とさえ断じる教育関係者は少なくない。

練習一筋と勉強一筋。同じように努力して人並みはずれた結果を叩き出しても、世間的には、前者は賞賛され、後者は賞賛されない(というか誰がトップだったかすらよく分からない)。これは一体なぜだろうか?

社会や世間の注目を浴び、賞賛され、期待されることによって、人は初めて、世間や社会に恩返しをしようと思うのではないだろうか。

若き秀才たちの多くが、長じて、手に入れた資格や権力を、世のため人のためというよりは、金儲けや利己的な栄達のために使うことに汲々とするようになるのは、これが原因と言ってもよいのではないか。

優秀な人間は社会において枢要な地位を手に入れる確率が高い。そうであるならば、若いうちから、蝶よ花よとおだてあげた方がいい。郷土の誇り、国の誉れと、大きな期待を背負わせるのだ。本人にとっては大きなお世話かも知れないが、世間や社会として、素直に、そのような扱いをすることが大事だと言いたい。

そうすることによって、初めて、若き秀才たちの心のうちに、何か、優秀であるがゆえの社会に対する責任感、らしきものが芽生えてくるのではないだろうか。

「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(ルカによる福音書)



機械と原料と工業生産物

2007-02-05 | 経済・社会
「女性は子を産む機械」という発言で、非難を浴びている柳沢厚労相。今日の報道では以下のように安堵していらっしゃるそうだ。

「柳沢伯夫厚生労働相は5日午前、東京都内で記者団に対し、愛知県知事選と北九州市長選が与野党の1勝1敗となった結果を受け『(愛知で)大激戦を制した神田(真秋)知事の力を本当にうれしく思った』と安堵(あんど)の表情を見せた。自身の進退については『前から申し上げている通り、私は与えられた任務を全力を挙げて頑張りたい』として、辞任しない考えを改めて強調した。」

別に自分の信任選挙で再選されたわけでもなし。柳沢大臣などあずかり知らぬ、地方の首長を選ぶ選挙結果について、「安堵」するというのも変な話だ。この選挙の有権者たちは柳沢氏の信任投票を行ったわけではないのだ。愛知の有権者は、いい迷惑だと感じているのではないか?

なるほど、「与えられた任務」をまっとうするということか。要するに、文句があるなら任務を与えてくれた人に言ってくれ、ということか。

女性は「産む機械」発言について、

①私の母は女性なので、母という出産機械から産まれた私も、ひょっとするとやはり機械ということになるのか?それとも女性という機械は、女の子という機械と、何か機械ではなさそうな男の子というものを産み分ける能力をもっているということだろうか。

②柳沢大臣は少子化問題を論ずる中で、女性は子を産む機械である、と言った。つまり、子供を何か工業生産物とみなして、その生産高をいかに向上させるかというたとえ話だ。子供という生産物の生産高が伸びないのは女という「産む機械」の性能が悪いからだ、とは、柳沢大臣は言っていない。だとすると何が問題だと彼は言いたかったのか。工場で働く人なら誰でも言うだろう。機械に問題がないのなら、原料でしょ。原料を投入しない限りどんな最新鋭の生産機械があっても、そりゃ、モノはできませんから。女性が産む機械なら男性は原料か!?

女性を生産機械にたとえることは男性を原料にたとえることと同じだし、産まれる子供を工業生産物とみなすことと同じである。

不妊に悩むカップルは柳沢発言をどのように受け止めているのだろうか。野田聖子議員はもっと毅然とした態度で発言すべきではないか。「私は故障してる機械だということですか」と柳沢大臣に詰め寄ったらどうだろうか。子供ができなければ三行半、という時代から、大臣にだってなれる時代になってきたのだ。野田元郵政相には、厚労相には私こそふさわしい、と安倍総理に直訴するくらいの気概を見せて欲しい。

たとえ子供は産んだとしても、それが男の子ではなくて女の子だったからというだけで、大変なプレッシャーを受け、今現在もひどいストレスから立ち直れないでいる女性のことを我々はみんな知っている。

雅子様は立派に子供を産んだが、それが男の子ではなく、女の子だったので、大変ひどい扱いを受けたようだ。まるで、皇太子妃は「世継ぎを産む機械」であって、男子を産まない皇太子妃は、その性能に欠陥があると言わんばかりの冷たい視線にさらされたのだ。さぞかし、つらかっただろう。機械には「つらい思い」などという人間的な感情は持ち得ないという認識だからこその中傷だったろう。こんな馬鹿な話はないと私は思う。これも実は同根の話なのだ。

柳沢発言は単なる「失言」として、謝罪とともに水に流す話ではない。まして愛知県の県知事選挙での結果をもって、「みそぎ」が終わったという話では、全く無い。

柳沢大臣の発言の背景には、私自身も例外とは言えない日本の男社会に浸透した根深い差別感情がある。これは彼一人の問題ではないからこそ、目をそらすべきではないと私は思う。

安倍総理は柳沢大臣を一刻も早く罷免すべきと思う。

オードリー

2006-12-04 | 経済・社会
オードリー・ヘップバーンといえば、私などよりも、ちょっと上の世代のおじさまたちにとって「あこがれのヒロイン」、ナンバーワンでしょう。

思えば「あこがれのヒロイン」という言葉自体、今や死語じゃないでしょうか。映画や舞台の大女優とお茶の間の距離感が、テレビや雑誌のおかげでぐっと近づいてしまって、「あこがれ」という言葉のもつ、やるせない距離感を奪ってしまったような気がします。

何を隠そう、私はオードリー・ヘップバーンに淡いあこがれを抱いているファンの一人です。

彼女は1929年生まれ、つまり、昭和4年生まれで、私の父親の一つ年下、母親の五つ年上です。自分の両親と同世代の女優に「あこがれる」というのもどうかと思いますが、「銀幕」の中の彼女の美しさ、清楚ではつらつとした動作は、時空を超えて私のような者の脳内にまで、しっかりとインプットされているのです。

そういう、私にとって数少ない「あこがれ」の対象であるオードリー・ヘップバーンが、テレビのCMに使われているのをみて、非常に不愉快でなりません。

彼女が主演した映画の名場面を切り取って、彼女のセリフにあわせて、あろうことか、「ローンは三井住友よ」みたいなセリフを吹き替えている。

これは絶対に許し難い暴挙である

なぜこのような醜悪なことが可能なのだろうか?

①彼女の主演した映画の著作権はもう切れてしまっていて、誰がどう使用しても勝手である

②著作権をもっている会社が高額の使用料と引き換えにOKした

しかし、映画の著作権とは別に、彼女のイメージが損なわれる可能性ということは考慮されないのであろうか?例えば彼女の遺族が、異議申し立てをするという道はあり得ないのであろうか?

もう一つの可能性として、晩年、国連児童基金特別大使などを務め、ユニセフの活動などに献身的に貢献した彼女の遺志を汲んで、彼女関連の映像やグッズの販売から上がる収益はそのような基金に寄付される、というような仕組みができている、ということもあり得ると思う。そういう事情なら私も賛成だ。

いずれが本当の事情かは分からないけれど、それにしても、どうせやるなら、もう少し配慮してもらえないものか。イメージ広告として、ただ名場面を再現するだけで十分でしょ。私の脳内で勝手に作り上げた「あこがれの彼女」は、たとえどんな大金を積まれても、銀行のカードローンの宣伝文句など決して口にしたりはしない。

吹き替えで下世話な宣伝文句を言わせるようなことは、頼むからやめてくれ!

キム・ジョン子

2006-11-04 | 経済・社会
娘「お腹すいたー!今日のおかず何~?」

母「カレーライスよ」

娘「うわっ、やだ。こないだもそうだったじゃん。何かほかの物ないのぉー」

よくあるやりとりだ。母は娘のこの態度に、内心ひどく憤慨している。「せっかく作ってあげたのに、何、この態度。感謝するのが当たり前でしょ。こっちだって忙しいのよ!」

ところが娘は感謝の気持ちなどかけらも持ち合わせていない。あれが欲しい、これはいやだ、誰々さんちではあーだった、こーだった。私だってあーしたい、こーしたい。言いたい放題である。

たまに母が切れて、ひどく叱ると、どうなるか。娘は逆ギレして、「もう学校に行かない」とか「グレてやる」などと言って恫喝するのである。

母はこの恫喝に弱い。娘はちゃんとそれを知っている。これでは娘が益々増長し、「ならず者」になってしまいかねない。

そこで、父の出番である。父は強硬派だ。自分が最も強いので、いざという時は問答無用の暴力措置をとることさえあり得る。その分、身勝手で不公平で、いばっていると非難されることにもなる。娘にとって、そんな父は「世界で一番キライ」な相手でもある。

北朝鮮をめぐる昨今の国際情勢をみていると、どうも我が家のこの状況とあまりかわらないのじゃないかと思う。

実力行使は絶対に避けた方が良いというところや、金融制裁はかなり効く、ということまで同じだ。

先日、我が家で言い争いがヒートアップしてきた時に、「お前の言い草はまるで北朝鮮と同じだ。お前はキム・ジョン子だ!」と怒鳴ってやった。これは結構うけた。

北鮮情勢と我が家の情勢で一つ異なるのは、キム・ジョンイルがアメリカとの直接対話を望んでいるのに対して、我が家のキム・ジョン子はやぶ猫との直接対話はできるだけ拒否したがっているということだ。

この点を捉えてみれば、北鮮情勢の方がまだ救いようがあるように思えるのだがいかがなものだろうか。

監査法人よ意地を見せろ

2006-05-12 | 経済・社会
中央青山監査法人に大きな処罰が下されたようです。

世間を騒がせた多くの「粉飾決算事件」に関わった中央青山ですが、個別事件の担当会計士個人の責任問題から、ついに「法人」として厳罰を受ける事態に至ったということです。

世間に知れ渡った事件だけではなく、もっともっと多くの不透明な事例があって、このような流れになったのでしょうが、一つだけ気になることがあります。

①決算情報をとりまとめて会計書類を作成する第一義的責任は「会社」にある。

これは自明であり、大前提です。

②会社側が準備した決算情報や会計書類を監査する、というのが会計監査人にの仕事です。③そしてその会計監査人がちゃんとした仕事をしているかどうかを内部でチェックする仕組みと責任が監査法人にあるというわけです。

そもそも粉飾決算というのは①で起こるわけです。法を犯してまで自社の決算情報を粉飾する動機というのは会社側経営陣にあります。そしてそれを押し通すプロセスで会計士による監査という壁をどのようにしてかいくぐるかという核心部分のやりとりが行われると考えるのが普通でしょう。

その核心部分における、会社経営陣と担当監査人とのやりとりは、法廷の場以外では通常、外部からうかがい知ることはできません。

経営陣と結託して監査人も承知の上で粉飾に手を染める悪質なケースも勿論あるでしょう。しかし、監査人は「知らなかった」「騙されていた」というケースだってあるように思います。

監査人に悪意がなかった場合でも、その監査実務に不手際があったり手抜きがあったりした場合は、「知らなかったで済む」話でないのは明らかで、「どのくらいキチンと監査をやったのか」という事実関係が厳しく問われることになるはずです。どのくらいキチンと監査をやったのか、という判断は高度に専門的な事柄なので、まずは当該監査法人内部でのルールや基準、さらには業界ルールなどに照らして評価されるべきでしょう。

その上で、「監査人の監査に手抜かりはなかった。しかし、粉飾は見抜けなかった」というケースがあり得ます。この場合、監査人の責任を問うことはできず、むしろ会社側の悪質さが最も厳しく問われてよいケースだと思います。

このケースを認めないと、「粉飾発覚」という結果責任を一律に会計監査人に追わせることになってしまい、上記①の大前提が崩れます。

何が言いたいかというと、騙す方と騙された方では騙した方が悪い、というきわめて単純なことです。

いろんなケースがあり得る中で、担当会計士はきちんとやるべきことはやった。しかし、結果として騙された、という事例はなかったのかどうか?

そしてこういうケースではその会計士が所属する監査法人は、担当会計士の監査のあり方に落ち度は無かったと判定した上で、敢然と、その相手先企業に対して絶縁状を叩きつけるだけではなく、詐欺罪で訴えるとか、損害賠償請求を起こす、ということをすべきだろうと思います。

会社側が騙そうとしている本当の相手は一般投資家です。その投資家を騙すに当たって、目障りな存在が会計監査人です。会社側に篭絡されたり、手抜き監査で粉飾を見過ごすような監査人は投資家サイドから見れば失格であることは言うまでもありません。

しかし、本当に善意で、一生懸命きちんとした監査をやって、しかも騙されたという会計士だって中にはいるかもしれません。そのような会計士とその会計士を雇っている監査法人は、我々一般投資家サイドに立ち、先頭になって、堂々と会社側を訴えるべきだと思います。

少数派

2006-05-06 | 経済・社会
ブログの世界で大きな支持者をもち、世論形成に少なからぬ影響力をもつと言われる書き手のことを「アルファ・ブロガー」と呼ぶそうだ。そんなアルファ・ブロガーの一人、「かんべえ」氏によると、ポスト小泉は「安倍晋太郎」で決まり、なのだそうだ。理由は簡単明瞭。世論調査で他を圧倒し、ダントツの一位だから。

まあ、面白くも何とも無い結論だが(かんべえ氏もそう言っている)、自民党の総裁選びにおいて、金や権謀術数よりも世論の方が大きな力をもつようになった、ということだ。これは小泉総裁が成し遂げた大きな変化であり、慶賀すべきことであろう。

しかし、やぶ猫としてはここで思いっきり頭を抱えてしまう。

安倍晋三は現行憲法下であっても、「日本は核兵器を所有できる」と公言して憚らぬ人である。

①国家には自衛権がある。
②日本は国家である。
③日本の(現行)憲法は日本の自衛権を当然認めている。
④自衛のために必要な措置・手段は政策によって決められる。
⑤今、わが国が核を持たないのは、政策的にそれが妥当だからであって、自衛のための核兵器や大陸間弾道ミサイルの所有は、それが政策的に妥当と判断されるなら、(現行)憲法上、否定されているものではない。

正確かどうか知らないが、概ねこういう論法だったと思う。要するに、現行憲法下であっても、「自衛のためなら何でもOK」ということだ。だったら、九条が気に入らない、とか、憲法改正だ、なんて言わなくても良さそうなもんだが。。。

靖国神社参拝問題についても、一貫して参拝支持。彼の場合、祖父である岸信介元首相がA級戦犯として巣鴨に放り込まれていたこともあり、多分、小泉さん以上にこの問題に関しては筋金入りだろう。

かれの意見は、それはそれで勿論、結構だ。多くの賛同者がいることも理解できる。私に理解できないのは、次期首相候補としてのその高い支持率である。本当に彼のような考え方を持つ人を、次期自民党総裁=日本の首相としてしまっていいのだろうか?

一見スマートで現代的な風貌だが、実は単純な国粋主義者なのではないか?
こういう人が一番人気になって、日本の首相になる。。。

私にとって、家庭内で少数派になるのはいつものことで、慣れっこだが、こういう問題で少数派になってしまうことは、不安だし、とても残念だ。

ホリエモン保釈

2006-04-29 | 経済・社会
ホリエモンが保釈された。随分スマートになって、かつての傲岸不遜な雰囲気が消え、普通の好青年のような印象だった。

本人は真っ向から容疑を否認し、今後、法廷で戦うということだが、公判の行方がどうなるか、あまり興味がわかない。

私としては、沖縄のカプセルホテルで死亡した野口氏の一件の方が気になる。その本当の死因と、背景についてである。

野口氏とは何かM&Aの話で、一度会ったことがある。相手の顔色をみながら快活によくしゃべる、証券営業マンとしてはよくあるタイプの人だという印象だった。M&Aスペシャリストなどの、いわゆるインベストメント・バンカーというタイプではない。

その意味で、ごく普通の証券営業マンとして元気に活躍していたであろう野口氏が、ホリエモンと知り合うようになったことにより、何を学び、どのような世界に足を踏み入れて行ったのか、そこのところに興味がある。

しかし、野口氏の死因は「自殺」ということで、とうに決着がつけられているし、ホリエモンの公判においても、マネーロンダリングや、脱税、インサイダー取引といった、闇社会との接点になりやすい事柄が争点になることはないようだ。

これでは野口氏も浮かばれまい・・・。

教えることと、学ぶこと

2006-04-12 | 経済・社会
小学校段階で英語を必修化すべきかどうか、議論になっているようです。

まず、この報道
「小学校段階の英語教育について検討してきた中教審外国語専門部会は二十七日、全国一律に小学校で英語を実施する『必修化』を提言する審議経過をまとめた」

これに対してあの石原都知事が噛み付きました
「小学校段階での英語必修化について、『全くナンセンス。若い者の日本語語学力はどんどん低下している』と述べ、日本人の基盤として国語力向上の必要性を説いた」

若い頃、米国に駐在し、嫌でも英語で仕事をする環境にどっぷり浸かったことのある私としては、とても興味のあるテーマです。

子を持つ親としては、自らの苦労を振り返って、なんとか子供に英語とITのスキルは身につけさせてあげたい、と思うのは当然のことでしょう。だから「学校で教えるべし」、これは別に悪いことではないと思います。

しかし問題の本質は石原都知事が言い当てている通りです。英語もITもツールです。そのツールを使って何を手に入れ、何を表現しようとするのか、表現すべき何物をあなたは身につけているのか、これこそが根本的に大事なことだと思います。

石原都知事の意見に大賛成の、元商社マンの方のブログによると、「アメリカで通訳をどうしても使う時はバイリンギュアルの日系人を雇うな、という金科玉条があった」そうです。その理由は、「白人(及びアメリカ人全般)に対して劣等感を持っているから(これじゃハードな交渉などできないから)」だそうです。

どんなに切れる包丁(ツール)を持っていても、腕が悪ければダメ、包丁を磨く前に腕を磨け、という当たり前のことをおっしゃっているのだと思います。

私としては、英語に限らず、「教えること(teaching)」と「学ぶこと(learning)」とは全く別物だと思っています。「教えることは難しく、学ぶことは楽しい」 これが真実です。何を教えるかは、あなたたちが決めることかも知れないけれど、何を学ぶかはわたしが決めること。

あまり肩肘張らずに、「良かれ」と思ったことは、国語も、英語も、パソコンも、大いに教えればいいじゃないですか、それぞれの子供がそれぞれの興味とレベルに応じて、自ら「学ぶ」ことを選んでいくでしょう。