『放浪記』や『浮雲』で知られる林芙美子だが、その著書を読んだ事はなくどんな話を書く人なのかはよく知らない。ただ、自宅を建てるにあたって200冊の建築書を読み、大工を京都に見物に連れて行くなど、自ら建物の研究をして、こだわりの家を建てた人だということは知っていた。
その家は今も「林芙美子記念館」として公開されている。
その話を聞いたのはもうずいぶん前のことで、ずっと行ってみたいと思っていた。
しかし、行ってみたいと思う場所が近くにあるとなかなか行かないもので、そこに行ったのは東京を去って1年以上が経った今年の2月、東京にも雪が降った翌日のことだった。
土曜日の昼下がりに新宿駅から西武新宿線に乗り込む。がらがらの室内の床には冬の低い日差しが長い影を作っていた。最寄り駅の中井駅で下車する。初めて降りる駅だ。大きなマンションがいくつか建てられているものの駅前には昔の東京を思い起こさせる程よい大きさの商店街があり、商店街を抜けると静かな古い住宅街だ。
駅を降りて山手通りの下をくぐると右手に見える道はみな坂道だ。
順番に一の坂、二の坂と名前が付けられていて、林芙美子邸は四の坂沿いにある。
四の坂沿いに開いた玄関。ただし今はここからは入れない。
建物は芙美子名義の住居棟と画家であった夫名義のアトリエ棟の2つからなる。
受付を済ませて入っていくと、最初にこの2つの建物の間を通っていく。
正面に見えるのが芙美子が好きだったというザクロの木。
ザクロの木付近で振り返って撮ったのが上の写真。
そのザクロの木付近から生活棟側を見る。
山口文象設計のこの家はモダンな数寄屋造り風な面と芙美子の好みらしい民家風の印象を合わせ持っている。
芙美子の母が使っていたという住居棟の奥の小間。屋根が民家風。
敷地の裏手は斜面になっていて、散策のために登ることができ、家の裏手に紅白の梅が並んで植えられているようすを上から見下ろすことができた。
雪に覆われていた2月の軽井沢だったが、東京はもう梅が咲いていた。
(続く)
その家は今も「林芙美子記念館」として公開されている。
その話を聞いたのはもうずいぶん前のことで、ずっと行ってみたいと思っていた。
しかし、行ってみたいと思う場所が近くにあるとなかなか行かないもので、そこに行ったのは東京を去って1年以上が経った今年の2月、東京にも雪が降った翌日のことだった。
土曜日の昼下がりに新宿駅から西武新宿線に乗り込む。がらがらの室内の床には冬の低い日差しが長い影を作っていた。最寄り駅の中井駅で下車する。初めて降りる駅だ。大きなマンションがいくつか建てられているものの駅前には昔の東京を思い起こさせる程よい大きさの商店街があり、商店街を抜けると静かな古い住宅街だ。
駅を降りて山手通りの下をくぐると右手に見える道はみな坂道だ。
順番に一の坂、二の坂と名前が付けられていて、林芙美子邸は四の坂沿いにある。
四の坂沿いに開いた玄関。ただし今はここからは入れない。
建物は芙美子名義の住居棟と画家であった夫名義のアトリエ棟の2つからなる。
受付を済ませて入っていくと、最初にこの2つの建物の間を通っていく。
正面に見えるのが芙美子が好きだったというザクロの木。
ザクロの木付近で振り返って撮ったのが上の写真。
そのザクロの木付近から生活棟側を見る。
山口文象設計のこの家はモダンな数寄屋造り風な面と芙美子の好みらしい民家風の印象を合わせ持っている。
芙美子の母が使っていたという住居棟の奥の小間。屋根が民家風。
敷地の裏手は斜面になっていて、散策のために登ることができ、家の裏手に紅白の梅が並んで植えられているようすを上から見下ろすことができた。
雪に覆われていた2月の軽井沢だったが、東京はもう梅が咲いていた。
(続く)
先日は、私のブログにおいでいただき、
どうもありがとうございました。
さて、林芙美子のお宅って、こんなにすごい
日本家屋なのですね。
学生時代、なぜか大学のゼミの指導教授とともに
森光子の放浪記の舞台を芸術座まで見に行ったことを思い出しました。
確か最後のシーンは、自宅の書斎で終わったと思います。こんな立派な邸宅が、舞台だったのですね。
ようやく念願かなって見に行く事ができました。
放浪記の最後は自宅の書斎なんですか。
この家の書斎も次の記事で写真をお見せしますが、正面に庭が見えて、なかなかいい感じの部屋でした。
林芙美子のお家ですってね。
西武新宿線沿線にあるんですか?知りませんでした。
すごく研究熱心な方だったのですね。
研究のすえにできたお家・・・きっとそこで筆も進んだことでしょうね。わかる気がします。
林芙美子という人がどんな人だったのかはよく知らないのですが、いろいろな工夫がなされていて、住み心地の良さそうな家でした。
こういう家に住んでみたいです。