地方小都市暮らし@寧舎

25年に亘る山里暮らしを経て人口7万人弱の地方の小都市に移り住みました。そこでの新しい暮らしを綴ります。

簡易アイゼン

2005-01-21 11:07:41 | 日常生活
 今年は、去年に続いて雪の量が多い。今年は1月20日までに大人の膝まで積もる雪が3回降った。どの家でも、除雪された道路まで車を出せるようにするため、朝早くから雪かきに追われる。先日の雪は湿っていて重かったが、今朝の雪は乾いていて比較的除雪し易かった。それでも、朝2時間も雪かきをすると、身体のあちこちが痛くなる。それでも、未だ除雪しなければならないところが残っている。

 こうした雪も晴天が続けば、日向では消えてしまうが、日陰では根雪になって残る。日向の雪が溶けて流れ、それが夜の寒さで凍りつくので、雪が完全になくなるまでは、朝の道路はつるつるとよく滑る。特に、夜のうちにうっすらと粉雪が降った朝は、道路のどこがよく滑る場所か判然としないので、実に怖い。坂道を下っているときに足をすくわれると、転んで膝や肘を傷めてしまうことになりかねない。

 私は山道を早朝にウォーキングすることにしているが、その山道が送電線の鉄塔に通じる保守用道路になっていて舗装されているので歩きやすい。しかし、トラック1台が通れるだけの幅しかなく、排水溝があちこちで詰まっていて、そこから日中路上に溢れ出た雪解け水が夜に凍るので、その坂道を下るときは、4つ這いになりたいくらいだ。

 そんなことから、登山用品店で簡易アイゼンを購入した。4本の爪のついた金具を土踏まずの辺りにあてがい、金具に付いた布ベルトを足首に巻きつけて固定する構造になっている。止め具が1つだけのため着脱が簡単であるし、1足分がポケットに入るので、実に使い心地がよい。つま先に爪がないので、登るときには足がすべるが、このために転ぶことはないので、私のような下りや平地の滑りを簡単に防止したい人にはお勧めである。

道普請

2005-01-14 10:33:09 | 地元習俗
 私の知る「普請」という言葉は、家を建築するという意味に限定されていたため、伍長(自治会組織での最小単位である隣組の連絡役)から「○月○日に道普請があるので出て下さい」と言われたときには、何のことか理解できず、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたと思う。江戸時代に普請奉行という役職があり、元来、土木工事も普請に含まれていたことを後で知った。

 私のところの道普請では、ケエドウ(街道、径道?)と呼ばれる農作業用に使うような小道を舗装する場合が多い。町役場の土木課の職員が数人きて、隣組からは各戸一人が出て行われる。道の土ならしを行ったあと、木枠を道端に設けて、コンクリートを流すといった作業である。

 受益者負担という考えからきたものと思うが、コンクリートの材料費は役場が負担し、人手は地元が負担するというやり方である。

 これも自分たちの生活環境を自分たちで整備しようという考えだろうと思うが、道路清掃というものもある。冬の間に泥や空き缶などで汚れた舗装道路を春先に掃除し、また雑草が生い茂る夏に草刈機(大抵の家で持っているエンジン式の刈払機)を持ち寄って草刈をする。私の属する隣組の担当する道路は2~3キロもあり、夏などは汗ぐっしょりになる。

 都会人ならば「そんな仕事は区役所がやるべきだ」と言いそうな仕事であるが、皆黙々とやる。でも、こんなときに、道路際の木陰で一休みして、缶ジュースで喉を潤しながら四方山話に花を咲かせるのは、都会では味わえない楽しみの一つである。

山への憧れ

2005-01-04 09:05:19 | 自然
 「秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛びいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。」
 枕草子のこの一節を読んだとき、「山の端」という言葉を初めて知った。

 私は幼少期を関東平野の真っただ中の田園地帯で過ごした。冬になると、雪をかぶった日光連山が見えるようになり、北風に逆らって前のめりになりながら、この日光連山に向かって歩いて、約1時間の道のりを小学校に通った。そんな環境にあったので、山を遠くに見ることはあっても身近なものではなかった。山は兎に角真っ直ぐ歩いていけば、そのまま頂上までいけるものと、実に単純に思っていた。

 その後、機会があって、木々の形までが見える山近くまで行くことがしばしばあり、電車の車窓から次々に見える山に大変感動した。それ以来、山が身近になり、観念的に認識した山から、肌で感じる山に変わった。高山よりも名も無い身近な低山に、そしてその森や生き物に、またそこでの人間の暮らしに興味が湧いた。

 なかでも、葉の落ちた頃の低山の稜線における、いがぐり頭のような木々の形に、なぜか心引かれる。これが、私にとっての「山の端」である。「山の端」とは、何ときれいな表現なのだろうと、柄にもなく感傷的な気分になる。仕事に集中できなくなって窓の外を見ると、有難いことに「山の端」が見える。秋の頃に紅葉していた雑木林が今は空が透けて見え、山の地肌には雪が見える。あそこを今頃ウサギが跳び、カモシカが駆け、ヤマネが可愛らしい足跡を雪の上に残し、ヒヨドリが赤い実をつっついているのだろう。

 

自然のなか

2005-01-03 12:08:44 | 自然
 自然の中にいると、美しい、厳しい、荘厳、幻想的、恐ろしい、穏やか、安らぎ...などという言葉が、その自然の状況に応じて浮かんで来る。そして、同じ自然でもそれを受け止める人間のおかれた状況や気分次第で異なった印象ともなる。

 人間関係に対しては、愛憎、悲喜、喜怒哀楽などといった非常に強い感情が湧くが、自然に対したときにはこうした感情は湧かない。こうした感情の種類が異なっている点と、人間関係で湧く感情が、自然に対して湧く感情とは比べものにならないほど強い点とが両者の間で大きく異なっている。

 早朝の山にいると、私の場合、人間関係や日常生活の煩わしさから開放されて安らぎを得られる。さわやかな空気を吸いながら、目の前に少しずつ展開する自然の動きをただ呆然と眺めていることのできる幸せを感じる。多分、頭の中が空っぽになり、殆ど何も考えていない状態になっているのだろうと思う。

 そのためもあってか、自然に対したときに、私には余り強い感情が湧かないように思う。