地方小都市暮らし@寧舎

25年に亘る山里暮らしを経て人口7万人弱の地方の小都市に移り住みました。そこでの新しい暮らしを綴ります。

苗販売

2007-04-28 10:20:44 | 日常生活
 地元高校の農業科で栽培した野菜と花の苗の即売会があった。
 8:30開門、9:00販売開始という新聞折込広告をみて、小雨の降るなかを軽トラを駆って出かける。8:30に門前に着くと既に開門になっていて、車の止まれるところは早くもギッシリ。例年の行事とのことで皆、ダンボール箱や苗を入れるプラスチックケースをぶる下げ、学校裏手のビニールハウスに向かって急いでいる。小雨が降っていることもあって時間前から販売開始したとのことで、ビニールハウスの前では入場制限の長い行列ができている。7時には既に校門の前に車が並んだとのこと。
 ナス、トマト、ピーマン、シシトウ、トウガラシ、キュウリ、オクラ、ニガウリ、シソ、パセリなどの苗が60円。スイカ、メロン、カボチャ、ズッキーニ、パプリカ、ハヤトウリの苗が120円。ビニールハウスの中は通路が歩けないほどの混雑。半分近くが既に売れていた。
 9本の苗を買って、しめて540円。市価の半分以下。混雑する筈だ。来年はもっと早く行こう。

海外旅行?

2007-04-23 11:55:46 | 心の解放
 車3300台駐車可能、テナント170店舗のショッピングセンターに行ってきた。立ち寄るのは今回3回目だが、余り広すぎて未だ全部のフロアーを歩いていない。今回は夜に行ったが、畑の暗闇の中に忽然と現れた不夜城のような感じ。行ったことはないが、ラスベガスもこんな感じではないだろうか。そんな訳で、海外旅行をしている気分で、興味津々の見学をしてきた。
 家内があちこちと歩き回って店を覗いている間、私はベンチに座って通りがかる人をウォッチングしていた。ジーンズの後ろのポケットが膝の後ろ辺りまでずり落ちた男や、どうやって穿いたかと思われる細いズボンを足首あたりにしわ寄せてピンヒールを履いた女、幼児をベビーカーに乗せた友達どうしと見まごう母娘。どれも面白くて飽きない。4人2組の幼児は、ショウウィンドウから出てきたような洒落た服装だった。それぞれの組が上から下まで同じ服装をしていた。子供服の店の子達で宣伝を兼ねていたのかもしれない。モップ、塵取り、スプレー、拭き布、その他の掃除小物を体中に装着した掃除係の人もいた。
 テナントで驚いたのが、耳掻きサロン。耳の穴を掃除してくれるらしい。若い男の客が二人いた。料金は確か3000円前後だったように思う。いやはや驚いた。

軽トラ

2007-04-17 13:43:44 | 日常生活
 遂に軽トラックを買った。12年前発売、走行距離8.5万キロの中古車だ。
 田舎で暮らしていると軽トラは必需品であるが、無駄を省いた合理的節約生活を標榜する身としては、なかなか買う決心がつかなかった。車検が終わって届いた軽トラは、きれいに掃除がされて錆びたところもペンキが塗られ、大袈裟に言えば、今までと違った新しい未来が開けるような嬉しさがあった。これで、押しも押されもしない本当の地元民だ。
 これからは、集落内の移動や山菜採りにこれが活躍するだろう。勿論、肥料や収穫物の運搬、長尺物の運搬などに役に立つ。家内は買い物もこれで行くなどと、殊勝なことを言っている。元分校の公民館で行われる来週の町議会議員選挙の投票にもこれで行ける。
 残念なことに、届いてから1週間もたつのに、まだ荷を運ぶ本来の使い方をしていない。「早く雨が止まないかなあ」と空を見上げて、自転車を買ってもらった幼児のような気持ちを味わっている。

花巡り

2007-04-13 06:33:36 | 自然
 昨日は付近の花巡りをしてきた。日中は天候に恵まれて上着を脱ぐほどだった。
 20年もここに住んでいるが、どれも殆ど見たことのないものばかり。桜、椿、水芭蕉、キンレンカ、水仙。こんな長閑で平穏な場所と時間が地球の一部に存在し、自分がそこに立ち会えることに感謝する。
 ウィークデイのため、「千本桜」などと名付けられたところは、中高年ばかり。これからの20-30年は、こんな光景が多くなるのだろうか。

仕合せ

2007-04-02 16:39:13 | 日常生活
 太宰治の「ヴィヨンの妻」という、第2次大戦直後の混乱期における作家の妻の生活を描いた作品の中に、飲食店の亭主が語る話としてこんな部分がある。
 「人間の一生は地獄でございまして、寸善尺魔、とは、まったく本当の事でございますね。一寸の仕合せには一尺の魔物が必ずくっついてまいります。人間三百六十五日、何の心配も無い日が、一日、いや半日あったら、それは仕合せな人間です」
 この部分がどういうわけか、読後数日してふっと蘇って来た。
 私は迂闊で鈍で間抜けな人間である。世の中の多くの人は幸せであって、少し不幸せな人がいる、365日のうち半分以上は幸せな日であって、不幸せな日は残りの少しの日だけだ、と漠然と思ってきた。還暦を過ぎたというのに、お目出度い限りだ。
 しかし、ここでよく考えてみれば、誰でも何か心配事を抱え、どんな幸せそうな人でも、一皮剥けば心配事を抱えている。心配事の無い人など、どこにも居ない。
 それにも拘らず心配事があると、往々にして自分だけが不幸せだと思ってしまう。これは間違いであって、誰でも皆、心配事を抱えて生きている。人は皆、それぞれ苦しみ、悩み、そして時たま少し喜ぶ、愛すべき存在なのだ。