創造的深化

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新しい国家の枠組み

2015-12-06 16:17:45 | 政治   
新しい国家の枠組みとは
マルクスの発見により「国家は固定的で強固なものではなく、経済や生産の拡大につれて、国境の枠組みはたやすく越えられてしまう」ことが分かっている。グローバル経済が私たちに気づかせてくれていることは、経済や産業がすでに国境を無化して、国を越えて協力したり、合同したり現地の産業を担ったり、他国に投資していることを実感している。インターネットも、簡単に国境を飛び越えていることも分かっている。では、なぜ国家は解体すべきか。
 思想家吉本隆明は、それに対してこう答える。「国家がある限り、階級というものが必ず発生して、民衆の間の差別が永久になくならない。」と。
 では、なぜ国家があれば、階級も差別もなくならないのか。それは、たまたま会社が倒産したり、商売が上手くいかなくなったりという不運にあい、生活に困窮する。あるいはエリート街道から外れてしまい、将来の描いていた暮らしは、たちまち破綻する。その人は仕方なく生活保護を受け、あるいは職安で紹介され再雇用の末、非正規社員となる。彼らを負け組と呼びかねない社会風潮すらもある。ところが、たまたまそんな目に遭わずに済み、事業が上手くいく人間もいる。ここに収入の格差が生じ、階層が生まれ、差別が子供達次世代に生じてしまうことも起きてくる。職業選択の自由が保障されているといいながら、現実は壁だらけで、チャンスは転がっているようで閉ざされている。一見、世の中は景気が良いとか、七割が中産階級と統計上いわれたとしても、いつそれが崩れてしまうかもしれない可能性を持っている。これが思うようにならない現代社会であり、国民国家解体の兆候は少しずつ現象として現れてきている。
 社会階級格差や階層の発生は、古代社会では、共有地とは別に家族が住む家の周辺の狭い土地が、個人に許された私有地だった。ここは収穫物を私物化できる。家族構成の違いと耕作用具の工夫が、格差を生み出す根源だった。現代では、すでに持てるものの富が厳然と差を生み出して拡大してきている。資本主義社会では、この利益追求が生み出した産業構造は物を売り買いするか、そのための手助けや売買もしくは仲介、
 また、国家の理想型として、政府もしくは国家権力は自治会の会長のように嫌々、仕方なく順番で引き受けるくらいの交代でやれば良く、内閣総理大臣や大臣も仕方なくいやいやながらやるのが国家の本来の理想型だという。しかし、嫌々とは心の中の状態を指すわけだから、中央権力は調整役で、核地方に権限も財源も移譲していく、まさに地方分権の地域主権は、日本の先駆的な改革、つまり国家を開き、民衆に国家を開いていく。少しずつ国家を解体し、国家権力を縮小させて行くには先駆的な改革だとしている。私見では、さらに地方自治体から、地域内分権を進め、各地域コミュニティーで住民達が考えてやれていけることは、住民自身で分担してやていく。「小さな自治体、大きな地域」を制度化し、住民主権を確立していくことが、これからの基礎自治体の核となると考えている。これが、国家を国民に開いていく目標になりうるといえる。それでは行政サービスの低下につながると反対する意見もあるが、中央にすべてのことを委任していたために不透明になり膨れあがってきた権限と財源を、より透明にし公開できるチャンスが手にはいるわけだ。住民が困ったとき、自分たちで手配できることは自分たちでやるようにすれば、無駄の削減にもつながり、地域に合った施策も可能となる。任意団体の自治会や非自治会員、地域の企業、各団体、地区社協、農協など、地域組織を再編し地域委員会で自主運営していく。さらに、核となる数軒から十数軒の隣組が相互扶助の絆を、個人の権利や情報の侵害など制約をツールやアイデアで工夫して支え合う社会の構築が見えてくる。このように、基礎自治体の住民主権に基づくしっかりした運営母体でできあがることで、従来の国民国家の枠を越えてでも、先進国で最も少子高齢社会の典型である日本でも、持続可能な社会が構築できうると思われる。現在の日本の人口は二〇五〇年には政府の試算では四割が高齢者になる。八千万人を割り、労働人口を増やしていかないと高齢者を支えきれなくなる。当然、労働可能年齢は例えば上限は七十歳まで引き上げられ、年金支給はそれ以降となり得るかもしれない。

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