碧田直の いいじゃないか。

演劇ユニット、ミルクディッパー主宰の碧田直が、日々を過ごして、あれこれ思ったことを、自由気ままに綴ります。

無題そのさんじゅうはち

2016-05-26 16:55:41 | 日々
昨日、クレヨンしんちゃんについて書いたが、子供アニメが長編になり、劇場にかかるというのはドラえもんあたりが最初だろうか。東映まんがまつりなんてのはあったが、あれは短編集みたいなものだし、長靴をはいた猫は、最初から劇場版として登場した。少なくとも、いわゆる子供アニメで(対象年齢が小学生まで)、記憶にあるのでとなると、『ドラえもん のびたの恐竜』からになる。

のび太が白亜紀の恐竜の卵を持ち帰り、卵が孵ってクビナガリュウの赤ちゃんが生まれる。のび太は赤ちゃんをピー助と名付け、かわいがるが……という物語だ。
当時、小学三年生だったので、映画館に行って観た記憶はない。が、マンガは読んだ。小学生のときにコロコロコミックだけは定期購読していたからだ。ドラえもんは雑誌の看板で、映画化のときには話題になった。しかも、映画はコロコロで先にマンガとして何ヵ月かに分けて連載した。だから映画を観るまでにはマンガで読み、展開も結末もすべて知っていた。それでも楽しかった。

思えば、あの楽しさは子供だから感じられるワクワク感だった。まだ非力で、親の庇護を受けなければ生きていけない子供だからこそ、自分が世界を救いたい、ほんの束の間でもヒーローになりたいという願望は強かった。
ウルトラマンや仮面ライダーにも熱中したが、普段は誰よりも情けないのび太の、普段は見せない勇姿には、それらのヒーローとは違うカタルシスがあった。より感情移入できた。自分も、いまはこんなに何もできないけど、宇宙の彼方にいる友達が助けを求めてきたときには、のび太のようなヒーローになって、友達のピンチを救いにいく。マンガを読みながら、そんなことを考えていたように思う。

いまは大人になり、たまにドラえもんの映画をマンガで読んだり、映像を観ても、子供のときのようにヒーローになりたいとは思わなくなった。ほんの少しだけでも、あの頃よりいろいろと出来るようになったからだ。料理、掃除、早起き……ヒーローにはなれなかったが、どうにか大人にはなれた。悪くない人生だと思っている。
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無題そのさんじゅうなな

2016-05-25 19:43:51 | 日々
今日はアニメ映画を鑑賞。『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』だ。今週末に予定している、芝居のワークショップでのディスカッションテーマである。
観るのは今回が初めてではない。映画館で観てはいないが、ほぼ近い頃にビデオで観て、それから何度か観ている。今回のディスカッションに備えても三度観た。

まず断っておかなければならないのは、自分は普段放送されている『クレヨンしんちゃん』は、一度も観たことがない。だから、登場するキャラクターのすべてを知らない。世界観もわからない。その上での感想である。

万博から始まり、ウルトラマンとおぼしきヒーローと怪獣(ゴモラ?)との戦いなど、わかりやすい懐かしネタの他にも、カリオストロの城や母をたずねて三千里など、いろいろの仕掛けがちりばめられていて、知っている大人は思わずニヤリとしてしまう。
しかし、この映画はそこが恐ろしい。誰もが気づくような、郷愁の共通アイテムで懐かしい気分にさせながら、心に冷や水を浴びせる。

映画の終盤、懐かしい匂いに侵され、子供に戻ってしまったひろしを元に戻したものは、ひろし自身の靴の匂いだった。この匂いはただ臭いだけではない。父の大きな背中を見上げ、安心感に包まれていた子供時代から、少年になり、初恋を覚え、上京して、仕事と格闘し、結婚して、やがて子供が生まれ、マイホームを購入し……といった人生を歩んできたひろしの、ここまでの半生が凝縮されている匂いだ。人はかけがえのない思い出を過去のものとし、現在の記憶を積み重ねながら生きていく。現在もまた、すぐに過去へと姿を変え、やがて懐かしい思い出になる。が、誰も思い出の中では生きられない。留まることなど、出来はしないのだ。それは永遠に叶わない夢である。
だから、子供時代の安心感を、一瞬でも取り戻したひろしはしかし、しんのすけの『オラがわかる?』との問いに、郷愁への未練の涙を流しながら抱き締めることで応じるのだ。個人的には、ここがこの映画のクライマックスである。

イエスタデイ・ワンスモアのケンとチャコにも軽く触れたい。彼らが単なる敵役ではないのは、映画を観終わった大人の誰もが感じると思う。それは、どの大人の心にも、二人が住んでいるからだ。みな、否定できない心の内の願望を、二人は象徴している。だからこそ、単純な敵役にはなりえないのである。

人は過去を懐かしみ、未来を思いながら、今を生きる。どこにも留まれないし、後戻りもできない。一足飛びもやれない。そうして思い出を積み重ねていくのだ。人生はもどかしいくらい、じりじりと一歩ずつ歩いていく。
最後にひとつ。しんのすけが鉄塔の階段を懸命に駆け上がる姿は、未来だけを信じられた幼い頃を思いだし、懐かしくもまぶしかった。
『オトナ帝国の逆襲』は、郷愁と未来への活力と今の大切さを、これでもかとばかりに何度もぶつけてくる傑作である。もっと歳を重ねた頃にまた観たい。そのときにどういう感想を持つか、いまから楽しみである。
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無題そのさんじゅうろく

2016-05-24 12:18:39 | 日々
由々しき事態が発生した。

このブログは、妻のブログを経由して訪問してくださる方もいらっしゃるようで、その方々には周知だろうが、あってはならない出来事が起こってしまった。
知ってる人は知っているが、妻もブログをやっている。文章だらけの当ブログと違い、写真を何点も載っけて、まあ華やかである。たいていは、食べたスイーツの写真など、どこにでもある他愛もない写真とともに、日常の記録というか、メモというか、写真を補足する短文が書かれていて、微笑ましいブログだ。

だが、先日アップされた記事の内容は看過できなかった。
先週末に帰った実家の周辺の、緑豊かな場所だけが写された写真に『神奈川県って、都会だと思ってたよ』との一文。
これは禁句である。言ってはいけない文言である。なぜなら、この文章はこういう意味だからだ。『でも、けっこう田舎だった』。
妻は否定するかもしれない。そんなつもりではなかったと。あるいは開き直るかもしれない。その通りではないかと(後者だと思う)。しかし、世の中には言っていいことといけないことがある。断じて神奈川は田舎ではない。百歩譲って実家の周辺は田舎だとしても、神奈川県は田舎ではない。

妻のブログは続く。俺の母校である小学校を写し、さらにこんな文章を載せた。
『まるでトトロの世界(笑)』
トトロの世界ぃ!?
あからさまな侮辱である。小学校六年間通って、トトロを見たことは一度もない。心が汚れていたからかもしれないが、小学生のときは現在に比べればいささか純であった。けれど見たことはない。見たことがあるのは、シカ二頭、タヌキ一匹、アオダイショウ、ヤマカガシ、モズ、キジ、あとは職員室そばの廊下にあったニホンザルの剥製。これくらいだ。どうだ、トトロなど出てこないだろうが。

……まあ、多少は緑が濃いめの景色だとは思う。思うけれども、しかし田舎じゃない。仮に小学校の周辺が田舎であっても、俺は田舎の人間じゃない。俺は都会人だ。紛れもなく都会人に決まっている。実家は駅から徒歩三十分だが、だから何だ。バスは一時間に二本だが、それがどうした。それくらいが慎ましくていいではないか。東京がせわしなさすぎるのだ。ウグイスのさえずりでも聞きながら、ゆったりいこうぜ。
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無題そのさんじゅうご

2016-05-23 13:12:44 | 日々
以前、先端(尖端?)恐怖症の傾向があることを書いた。いわゆるはさみとか、ペン先とかに恐怖心を覚え、眉間のあたりがムズムズしていられなくなる症状のことだ。

実をいうと、自分ははさみもペン先も大丈夫だ。顔の近くに持ってこられるとキツいが、使用する分には支障ない。耳かきなんかも平気だし、症状自体は軽いのだと思う。

調べてみたところ、重い症状の人になると、起き上がることもできなくなるそうだ。部屋中の尖端という尖端が怖いらしい。
自分も一度だけ、テレビの角が怖くなったことがあったが、無類のテレビっ子だっただけに、克服もあっという間だった。角を見ずに、画面に集中すればいいのだ。テレビの角だけ凝視している人間はいない。これは簡単だった。

床屋は大の苦手だが、丁寧にやらず、顔の近くに刃先を持ってくることがなければ、どうにかなる。特にもみあげや、耳の周りの散髪は地獄の苦しみなので、もういっそのこと刈り上げてしまおうかと思ったりもする。

だが、この数年、新たな尖端恐怖症が現れ、俺を悩ませている。しかも、実は尖端関係ないのに、ある場所にいると、同じ症状の恐怖を感じるので、秘かに困っているのだ。
尖端恐怖症の恐怖を感じるのに、尖ったものが関係ない場所。それは……。

電車の座席である。

……まあ、話は最後まで聞いてほしい。あるときのこと、電車の座席に座り、長旅だからと目を瞑った途端、眉間のあたりがムズムズしはじめ、次第に恐怖を感じるようになった。いてもたってもいられず、突如として叫びたくなるような恐怖。うまく言えないが、そういうものだ。そして、それはまさに尖端恐怖症の時に感じるのと同じだった。

しかし、不思議なことにどこにも尖ったものはない。試しに立ち上がり、しばらくつり革につかまってみても(空いていた)、何の恐怖も感じないのだ。それはそうで、つり革は丸いし、座席も柔らか、尖ったものなど、どこにもないのだから。

それでふたたび座り直し、目を瞑ると……やっぱりムズムズし出した。眉間に手を当てて気を落ち着かせる。理由はわからないが、こうすると落ち着くのだ。手を離すとムズムズ。当てるとホッ。ムズムズ…ホッ…ムズムズ……はたから見れば、目を閉じて眉間に手をやったり離したりしている姿は、ただのアブナイ人である。しかし、当人は真剣なのだ。真剣に原因を追求しているのだ。
何度か繰り返して、ふと気づいた。これは床屋の椅子と同じだと。

床屋では、髪を切られている姿が鏡に映るのを見ていられないため、いつも目を瞑っている。それがかえって恐怖を煽るときもあるが、目を開けてはどうしてもいられないので、固く瞑ることもしぱしばだ。

いまのシチュエーションは、まさにそれ。 床屋を思い出す格好だからムズムズしたのだ。では眠らなければいいのかと考えた。いやだ、電車では眠りたい。ではいったいどうすれば……。考えているうち、猛烈に眠気がきて、最寄り駅まで寝て着いた。

以来、電車で一眠りするまでは苦労している。頬杖ついたり、全身リラックスさせたり。しかし、いまだにすぐには眠れない。我が身はこんなにデリケートだったのか。しかし、絶対に克服してみせよう。全力で眠ってやるのだ。恐怖症などに負けてたまるか。アブナイ人は毎朝こうして、人知れず戦っているのである。
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無題そのさんじゅうよん

2016-05-22 18:04:40 | 日々
実家逗留二日目。七時に起床して妻を起こし、俺が卒業した小学校までの通学路を散歩する。
小学生のとき、集団登校で二~三十分通った道は、基本が坂である。ひとしきり坂をあがり、畑に面した道に出て歩き続け、急勾配でひねりのきいた坂を登りきると、ようやく学校が見えてくる。あの頃の校舎とは変わってしまったが、体育館やプールなどはあの頃のままだ。
校舎の周りは、それなりに人家もあるものの深い緑に覆われている。彼方に山の稜線も見え、ウグイスをはじめとした鳥の鳴き声が、朝の空気に響き渡っている。

子供の頃には、気にも留めなかった自然の音に耳を預けつつ、二人でぐるりと校舎周りの道を一周する。学校駅伝で走った道は、昔と何ら変わっておらず、眠っていた記憶を呼び覚ました。

最上級生になった俺は、年一回行われる駅伝大会のチームリーダーとなり、最終アンカーのスタートラインに立っていた。初参加となる四年生のときが十五チーム中十四位、五年のときが八位だったため、五位か六位で、抜きも抜かれもせずにゴールしたいと願っていた。あまり下の順位も嫌だけど、上すぎてごぼう抜きされるのも恥ずかしい。自分の力通りの成績がちょうどいい、と思っていたのだ。

ところが、情報によると中間で我がチームが一位だという。事前に『楽しく走る、とりあえず一人は抜こう』とだけ話していただけなのに、何をどう頑張ってしまったのか、トップを快走しているというのだ。
本命を絶対視されていた、断然クラストップのやつが率いるチームは九位。二位もダークホースの無印で、オープン参加の教員チームが三位。四位以下はだいぶ離されていて、優勝争いは俺のチームと二位のチームに絞られる展開に。何ということをしてくれたのだ……。

いよいよタスキが渡された。ほとんど差もなく二位もタスキを渡す。二位のチームリーダーは井上といい、リーダーを決める長距離走では、八位だった俺に対し五位だった。力の差はあったが、こうなれば無様に負けるわけにもいかない。しばらく並んで、抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げた。

路上の見物人から声援が飛ぶ。はっきり確認できなかったが、やつの両親らしき大人たちの応援を受けて、井上は加速した。ついていこうとしたが、地力の差は歴然で、俺は引き離され始めた。こうなると、もともと五位くらいで御の字の俺は弱い(笑)。少しずつ離されていき、井上は見えなくなってしまった。

気楽なランが始まった。息苦しいレースよさらば、のんびり二位でフィニッシュだ。明らかにスピードを落として、ゆったりモードで走る俺。
そこへ、激しく息をはずませて迫る気配が。振り返ると、そこには目を剥き、歯を食いしばって俺との距離を縮める担任のO先生(当時二十七歳)だ。
必死の形相に思わず道を開けると、O先生は並ぶ間もなく俺を抜き去り、すぐに見えなくなった。

オープン参加だというのに必死だなー、と上から目線で眺めていた俺は、学校が見えたあたりからスピードを戻し、二位でゴールした。チームのみんなは大喜び。まさかのベストスリーに笑顔で記念写真におさまった。

いま思い返すと嫌なガキであるが、きっと生意気ざかりの当時の俺には、二度と戻らない瞬間を全力で頑張る大切さが、どこか気恥ずかしかったのだと思う。いかにも子供らしい無邪気な笑顔に囲まれながら、俺はどこか大人ぶった笑みを浮かべていた記憶がある。もう子供の時間は終わっていたのだ。

ちなみに、大人げなく俺を抜き去ったO先生は、一位の井上を校庭のトラック勝負で抜いて、一番のゴールテープを切った。そして、そのあまりの大人げなさに、校長先生にこっぴどく叱られたと後で聞いた。そんな先生も、いまは別の小学校で校長先生をやっていて、来年定年である。思えばあの駅伝から、もう三十三年も経とうとしているのか。
背伸びした子供だった俺も、オッサンになった。チームのみんなはどうしているかな。楽しいオッサンオバサンになっていて欲しいなと思っている。
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