碧田直の いいじゃないか。

演劇ユニット、ミルクディッパー主宰の碧田直が、日々を過ごして、あれこれ思ったことを、自由気ままに綴ります。

無題そのごひゃくさんじゅう

2017-09-30 06:53:21 | 日々
今日は曇り。

今日は実家に行く予定。その前に定期的に通っている病院に行かなければいけないので、帰るのは二時過ぎになりそうだが、一か月ぶりの実家だ。
実家を離れてずいぶんになるが、二年ほども帰らないときもあったし、割と頻繁に帰るときもあった。親がそれなりに老齢となってきたので、安否確認も含めて、いまは月一度のプチ帰省をしている。といっても、特別なことをするでもなく、晩飯を作るくらいだ。どこに何があるかわからず、結局、母親が動き回って、あまりゆっくり休ませてはいないのが現状ではあるが(笑)。
とりあえず、行ったら芝居に来てくれたお礼でも言うことにしよう。お客は誰であってもありがたい。ああ、ありがたいありがたい。
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無題そのごひゃくにじゅうきゅう

2017-09-29 22:49:35 | 日々
今日は晴れ。今日を秋晴れと言わなければ、何を秋晴れと言うんだという感じの、晴れ。

バイト後に観劇をした。やっぱり芝居はいい。生の臨場感というものの魅力は、芝居に限らずスポーツでも、ライヴなんかでも存分に味わうことができるが、芝居もまた、映像で観るときと生で観るときとでは、受け取る内容の深さというか、幅というか、味がまるで違う。登場人物ひとりひとりが、いわゆるキャラクターではなく、息をしてそこにいる存在として直截に伝わってきて、それを受け取るこちらもまた、息をつめながら見つめるひとりひとりから成る観客だと感じ取れる。映像では受け取り側の空気感までは伝わらないが、それが生ではビンビン伝わってくる。というよりも、それがなければ芝居は成立しない。巻き戻せない、一過性の物語だからこそ、なるべく多くのものを受け取ろうとする観客の緊張感が、芝居の最後の要素となるのだ。
今日の芝居もまた、観客が最後の要素としてちゃんとそこにいた。内容に彩りを与え、役者がしっかり役を生きる手助けをしていた。この感覚を味わうために、また、自分も最後の要素となるために、俺はまた芝居を観に行くつもりだ。
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無題そのごひゃくにじゅうはち

2017-09-28 19:49:34 | 日々
今朝は雨。途中曇り。帰りまた雨。

同僚が自分たちの芝居を観にきてからというもの、芝居について尋ねられることが増えた。が、演技論だとかそういうことには興味がないらしく、たいていは芝居はいくらかかるのか、という経費にまつわる質問となる。
もちろん、経費とひと口に言っても、芝居の規模にもよるし、内容にもよる。一概には言えないというのが本当のところではあるが、そのあたりをくどくどと説明したところで分かってもらえるとは思えない。ひたすら下世話に、いくらかかるのか知りたいのだから、経験上かかった額を話すしかない。
こういう場合、人というのは、一番経費がかかったケースか、反対に一番安くあげたケースを答えるようだ。俺も例にもれず、一番経費がかかったケースを話す。劇場費、舞台美術費、人件費などなど。結局、百万ほどかかった話をしたら、わかりやすく引いていた。結局のところ、それだけお金をかけても完全には回収できない事実を話したからだろう。「好きじゃなかったら出来ないね」と呪文のように繰り返す。
芝居は好きじゃなかったら出来ない、それは確かだ。しかし、ただ好きというだけで、百万ほどのお金をつぎ込めるわけもない。何かしら前進できている手応えがあるから、次にはもっといけるんじゃないかと夢を見ることができるから、頑張れるのだ。何の希望も見えず、頑張れば頑張るほど後退していくのがわかる状態では、人は頑張れない。ほんの微かでも、光があれば。
 
……などと暑苦しい話はしても無駄なので、愛想笑いで済ませている。ちょっとだけ後ろめたい(笑)。
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無題そのごひゃくにじゅうなな

2017-09-27 17:48:37 | 日々
全国的には雨模様だったようだが、東京は黒い雲が立ち込めていたものの、晴れ間も出て、おだやかな一日。

仕事が早朝からなので、だいたい朝の五時過ぎには家を出るのだが、歩いて二分とかからない邸宅の駐車スペースに、毎朝猫が車の下に陣取って、道行く人を見ている。
猫好きなので、彼(彼女)の前を通過するたびに、軽く手をあげて挨拶していたのだが、特にたいした反応もなく、まあでも、そこは猫だし、逃げないだけでも良しとするかな、と思いながら、毎日続けていたところ、つい最近になって、彼(彼女)が、俺が挨拶するのに合わせて、短く「にゃ」と返事をしていることに気付いた。一緒に歩いている妻に、興奮気味に話したところ、最初は懐疑的だったが、翌日の彼(彼女)の返事が聞こえたらしく、ちょっと興奮して「よかったね」と言ってくれた。
始発に乗らなければならないので、歩みを止められず、だから、ほんの束の間、挨拶を交わすだけだったのだが、今日は仕事がなかったため、駅まで妻を見送った帰りに、少し立ち止まってみた。
すると、「にゃー」と今度は甘えたように長く鳴くではないか。ゆっくりとしゃがみ、手をブラブラさせると、それに合わせて「にゃー」「にゃー」と鳴き、どうしたらいいかとばかりにキョロキョロしだした。おそらく、遊びにはいきたいが、安全な車の下から出るのを躊躇もしていて、落ち着きがなくなったのだろう。こちらから近づけば何とかなりそうだが、それは人の家の敷地に立ち入ることになるので、それはできず、やむなくその場を立ち去った。
彼(彼女)とは、どうやらもう少しで友達になれそうだ。思えば、いまの土地に住み始めて、最初に仲良くなったのも、同じ家に居ついていた別の猫だった。どうやら俺とこの家の猫たちとは相性がいいらしい。明日の朝も楽しみである。
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無題そのごひゃくにじゅうろく

2017-09-26 20:51:25 | 日々
今日も晴れた。明日は雨らしい。いろいろやることがあるというのに。

今日の夕方知ったが、昨夜、渋谷のスクランブル交差点で、暴走したワゴン車が、パトカーとカーチェイスまがいのことをやらかし、行き交う人々がパニックになってしまったらしい。俺は今の職場がスクランブル交差点の近くで、今年に限っても、何度も交差点を渡っているので、正直まったくの人ごとではない。被害者は出なかったらしいが、ワゴン車は逃走したままだという。ちょっとでも逃げ遅れた人がいれば、大惨事になっていたところだった。何とか警察には車を特定してもらって、不安のないようにしてほしい。
こんなことを書いたのは、芝居からバイト復帰を果たした日に、どこかのサイトに書き込まれた殺害予告をプリントした紙が、出入り口の裏側に貼ってあるのを見たばかりだからだ。おそらく管理会社の人たちがその書き込みを見つけ、注意喚起のために貼りつけたのだろうと思うが、その書き込みで、無差別殺人を行うと予告してあった場所が、スクランブル交差点だった。大勢の人々が渡るなかを、車で無差別にはねて回ると書いてあり、秋葉原の事件のことを考えれば、決してありえないとは言い切れないな、と思った矢先の昨夜の事件だけに、嫌な印象が残る。
人はいつ死ぬかわからない。そして、人生は一度きりだ。だからこそ。理不尽なかたちで、死を迎えたくはないし、誰にも迎えてほしくはない。心から、そう思う。
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