碧田直の いいじゃないか。

演劇ユニット、ミルクディッパー主宰の碧田直が、日々を過ごして、あれこれ思ったことを、自由気ままに綴ります。

無題そのさんじゅうよん

2016-05-22 18:04:40 | 日々
実家逗留二日目。七時に起床して妻を起こし、俺が卒業した小学校までの通学路を散歩する。
小学生のとき、集団登校で二~三十分通った道は、基本が坂である。ひとしきり坂をあがり、畑に面した道に出て歩き続け、急勾配でひねりのきいた坂を登りきると、ようやく学校が見えてくる。あの頃の校舎とは変わってしまったが、体育館やプールなどはあの頃のままだ。
校舎の周りは、それなりに人家もあるものの深い緑に覆われている。彼方に山の稜線も見え、ウグイスをはじめとした鳥の鳴き声が、朝の空気に響き渡っている。

子供の頃には、気にも留めなかった自然の音に耳を預けつつ、二人でぐるりと校舎周りの道を一周する。学校駅伝で走った道は、昔と何ら変わっておらず、眠っていた記憶を呼び覚ました。

最上級生になった俺は、年一回行われる駅伝大会のチームリーダーとなり、最終アンカーのスタートラインに立っていた。初参加となる四年生のときが十五チーム中十四位、五年のときが八位だったため、五位か六位で、抜きも抜かれもせずにゴールしたいと願っていた。あまり下の順位も嫌だけど、上すぎてごぼう抜きされるのも恥ずかしい。自分の力通りの成績がちょうどいい、と思っていたのだ。

ところが、情報によると中間で我がチームが一位だという。事前に『楽しく走る、とりあえず一人は抜こう』とだけ話していただけなのに、何をどう頑張ってしまったのか、トップを快走しているというのだ。
本命を絶対視されていた、断然クラストップのやつが率いるチームは九位。二位もダークホースの無印で、オープン参加の教員チームが三位。四位以下はだいぶ離されていて、優勝争いは俺のチームと二位のチームに絞られる展開に。何ということをしてくれたのだ……。

いよいよタスキが渡された。ほとんど差もなく二位もタスキを渡す。二位のチームリーダーは井上といい、リーダーを決める長距離走では、八位だった俺に対し五位だった。力の差はあったが、こうなれば無様に負けるわけにもいかない。しばらく並んで、抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げた。

路上の見物人から声援が飛ぶ。はっきり確認できなかったが、やつの両親らしき大人たちの応援を受けて、井上は加速した。ついていこうとしたが、地力の差は歴然で、俺は引き離され始めた。こうなると、もともと五位くらいで御の字の俺は弱い(笑)。少しずつ離されていき、井上は見えなくなってしまった。

気楽なランが始まった。息苦しいレースよさらば、のんびり二位でフィニッシュだ。明らかにスピードを落として、ゆったりモードで走る俺。
そこへ、激しく息をはずませて迫る気配が。振り返ると、そこには目を剥き、歯を食いしばって俺との距離を縮める担任のO先生(当時二十七歳)だ。
必死の形相に思わず道を開けると、O先生は並ぶ間もなく俺を抜き去り、すぐに見えなくなった。

オープン参加だというのに必死だなー、と上から目線で眺めていた俺は、学校が見えたあたりからスピードを戻し、二位でゴールした。チームのみんなは大喜び。まさかのベストスリーに笑顔で記念写真におさまった。

いま思い返すと嫌なガキであるが、きっと生意気ざかりの当時の俺には、二度と戻らない瞬間を全力で頑張る大切さが、どこか気恥ずかしかったのだと思う。いかにも子供らしい無邪気な笑顔に囲まれながら、俺はどこか大人ぶった笑みを浮かべていた記憶がある。もう子供の時間は終わっていたのだ。

ちなみに、大人げなく俺を抜き去ったO先生は、一位の井上を校庭のトラック勝負で抜いて、一番のゴールテープを切った。そして、そのあまりの大人げなさに、校長先生にこっぴどく叱られたと後で聞いた。そんな先生も、いまは別の小学校で校長先生をやっていて、来年定年である。思えばあの駅伝から、もう三十三年も経とうとしているのか。
背伸びした子供だった俺も、オッサンになった。チームのみんなはどうしているかな。楽しいオッサンオバサンになっていて欲しいなと思っている。
コメント
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