院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

戦後復興の象徴 ・ 東京タワー

2017-07-28 10:52:39 | 社会

(建設中の東京タワー。ヒストリーチャンネルより引用。)

私が小学校3年生のときに東京タワーが完成した。父親に連れて行ってもらった。ただ、エレベーターに乗るのに何10分も並ばなくてはならなかった。

そこで階段を歩いて登ったけれども、意外に大したことはなかった。できたばかりの東京タワーに登った体験は、私の中に鮮明に残っている。

私は自分の子どもたちを東京タワーに連れて行っていない。そうこうするうちに東京スカイツリーの時代になってしまった。

スカイツリーの完成より東京タワーの完成のほうが、圧倒的にインパクトがあった。私の孫たちを子どもたちが連れて行くかどうか、いちいち口出ししないようにしている。


 ※私の俳句(夏)
    湿気濃し滝に近づきゆくほどに


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2 コメント

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戦後復興の象徴・東京タワー (シナモン)
2017-07-29 01:56:07
(1)
私は戦後の東京生まれだが、あれほど全国の大都市、中小都市が完膚無きまでに爆撃をうけ、人員ならびに社会資本の破壊が甚大なものだったにも関わらず、私が物心ついた頃の東京の中心部(文京区)には、戦災の面影はまったくなかった。

社宅の目の前には不忍通りがあり、江戸川橋と上野広小路を往復する都電が猫又坂を上り下りしていた。母親がこの都電で週に数回、上野まで買い物にでかけるのにくっついて、都内見物を楽しんでいた。

七歳の年には、すでに経済白書が「もはや戦後ではない」という有名な言葉を明記した(昭和31年・1956)これは戦前の昭和13年の経済規模にすでに回復したという意味であった。

産業の回復と共に、レートが1ドル360円時代の有利さを反映して輸出が飛躍的に拡大し日本経済は復興と大発展の軌道上を走り出した。

家庭電化製品の三種の神器は「電気炊飯器、洗濯機、冷蔵庫」あるいは「掃除機、洗濯機、冷蔵庫」と言われる時代から、次第に「テレビ、洗濯機、冷蔵庫」と言われるようになっていく。これが我々の世代が小学校の六年間を送った怒濤の時代である。

(2)
そんな時代の昭和33年の師走、クリスマスイブの前日に、増上寺の西側の港区芝公園の地に電波塔が完成した。山手線や京浜東北線の浜松町駅の西方である。建設中から鳴り物入りでマスコミが報じていたので小学生の小僧だった私もよく覚えている。父親と建設中の現場近くに見物に行ったこともある。

「日本電波塔」というお堅い名前がいかめしくて気に入っていたが、新聞に発表された愛称は「東京タワー」。この名前の軽さに私は笑いもしたし、失望もした。タワーの意味はよく分からなかったが、「タワシ」とまでは言わないにしても、その絶対的に安っぽい名前に笑うしかなかったのである。これはたぶん私だけの特異的感想なのだろう。英語を元にしたカタカナ語が、アメリカ文化の軽妙な文化侵略のようにも思えた。

333m。当時、こんなに高い建造物はなかったから、まさに東京のシンボルとしての役割を果たした。地図をみるとわかるのだが、東京区部のまさに扇の要の位置にある。子供ながら誇り高い気持ちがみなぎった。

(3)
スカイツリー(634m)は東京タワーの二倍近い。投入された鉄材の重量もはるかに多い。そして建設に集約された技術の高さは時代の違いを思い起こさせる。しかし、それでも東京都民に与えた時代的インパクトは、東京タワーの方がはるかに大きい。時代背景をまじえた「物語」が描けるのである。

あの時代には、敗戦からの復興というのが国民をなによりも慰めたし勇気づけた。徹底的に破壊されつくした日本は、逆に言うと、B29のおかげで、自分たちで経費をかけて取り壊す必要なく、新しいものを陸続とつくっていく幸運に恵まれた。これはよくイギリスと比べて言われることである。戦勝国ゆえに戦前の社会インフラが温存されたことが以後の発展に不利に作用した。日本は技術者は温存された。世界に伍する航空、造船、鉄道の中枢たる人も建設機器も温存され、敗戦からわずか19年で世界に冠たる東海道新幹線をつくりあげた。昭和39年(1964)のことである。

東京タワーはこの一連の高度経済成長のまさにそびえる旗印なのである。





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お返事 (管理人)
2017-07-29 05:34:29
シナモンさん、コメントありがとうございます。
ほんとにそうですね。往時が思い出されます。
「B29」のおかげでインフラ立て直しのきっかけができたとは卓見ですね。

母親(健在)は「広島の原爆で30万人死んだというけど、東京大空襲でも10万人死んだんだよ」と経験者として苦々しく言います。父(病没)はシベリヤに2年間抑留されていました。

私たちはそうした犠牲の上に現在の幸せを謳歌しているのでしょうね。徴兵制もないし。

またコメントお願いいたいます。
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