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宇治の平等院

2023年06月11日 | 紀行(建築・桜)

昨日は世界遺産の平等院に行ってきました。今日のような梅雨空でなくて良かったです。

世界遺産 平等院

世界遺産 平等院

 

 

ここには亡き父母や家族と40年程前に行ったような記憶が・・

中学校の時に学校の旅行でも行ったのかな?でもやっぱり覚えていないわ。全く覚えていないので、初めて見る気分で訪れました。

今、この歳になって見る方が、平等院の美しさも説明も、ずっと自分の気持ちの中にすんなりと入り込む。子供の時の参拝は何の知識もなく、ただ見るだけだったことだろう。

ブラタモリの大阪・京都で案内を勤めている、「まいまい京都」のスタッフの案内です。

今回のスタッフは、平等院で文化財の補修・修理を担当していた男性です。

そういえば、平等院は先だって長いこと修理をしていましたね。

平安時代に創建されました。今は元の色合いは少ししか残ってはいないけれど、オリジナルは今よりもずっと華麗な色彩が施されていて、当時の人々の目にどれほど夢のように美しく写った事だろう。まさに極楽浄土。

よく見ると、真ん中の阿弥陀堂と左右の建物は別々。

真ん中の阿弥陀仏様に手を合わせてきました。

昔は無かった、とても近代的なデザインの宝物殿が後ろに作られていて、元の極彩色の平等院をバーチャルで見られました。

写メや柱などに触れることはNGだけど、人数制限をして阿弥陀堂の中に限定15分だけは入れました。昔も中に入ったのかな??さっぱり記憶がありませんが💦

まいまい京都のおかげで、通常非公開の重要文化財の寺院にも入れました。

中の写メはNGでしたが、日本一古いという欄間のデザインの斬新さや、襖絵を拝見。

苔むしたお庭だけ、写メがOKでした。作庭が有名な細川忠興で、あの細川ガラシャの夫です。細川さんは風流人だったんやね。

あまり作り込んだ感じのない、素朴さを感じるお庭には、自然にこちらもその中に溶け込んでいくような気がしました。

敷石を踏み、苔に触れてみたかったけど、眺めるのみです。

咲き始めていた萩の赤い花が、愛らしかった。宇治川の流れに歴史を感じ、門前に並ぶ有名なお茶屋に、ここは宇治だと実感しました。

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3 コメント

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Unknown (sao)
2023-07-23 20:31:11
>高杉セブンさん、今晩は。
賞レースに一喜一憂していたのは、1972年から1980年代の前半まで。約10年間だけのことだったと、思い起こします。
ジュリーが大賞を取った時は心から嬉しく誇らしく、取れなかった時にはガッカリしていました。
そんな賞レースから遠ざかり、いつの間にか歌謡大賞はなくなり、レコード大賞だけは今でも続いていますが、大晦日の放送ではなくなりました。今では誰が取ったのか、受賞者の名前も知らずです。
思えば、賞レースが華やかな時代はまさに、ジュリーの絶頂期と重なっていたと思います。
楽しい良い時代でした。
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Unknown (高杉セブン)
2023-07-23 15:14:00
先程、さいたまスーパーアリーナ公演見に行かれた方からメールをいただきました。男性客が多かったと。男子トイレが混んでいた層です。BSの放送見て、やっぱり沢田研二は凄い。これは見ておかないとと来た方もいたのではと書かれていました。
私より5年程上のタイガース時代から見ている筋金入りの強者です。
返信する
Unknown (高杉セブン)
2023-07-23 10:35:59
91年のNHKBS24時間特番で沢田研二さんの芸能生活25周年番組を見た時に、近くの無量寺というお寺さんにお賽銭上げてお参りするのが日課だと。静かな後ろ姿を映していました。今でも行かれているのかとふと思い出しました。
1982年の賞レース
「あいつ、落ち込んでたなあ」。友人が私の姿を見てそう言っていたと聞かされたのは88年に紅白落選した時でしたが、ピークアウトして久しかった88年ではなくて、まだ全盛期にあった82年にもそんな事がありました。この年の賞レースはレコード大賞細川たかしの北酒場と日本歌謡大賞岩崎宏美の聖母たちのララバイに2分されましたが、隙間の賞レースで沢田研二が大賞を取るチャンスはあったと思っています。
立ち上げたばかりのテレ東メガロポリス歌謡祭
演歌部門五木ひろし、ポップス部門近藤真彦
日本テレビ歌謡祭岩崎宏美の聖母たちのララバイ
この辺りまでは8月開催で後追いの本命歌手も鳴りを潜めている事もありました。
10月に入選、12月に本選が入る所から本気モードになっていったイメージがあります。
先陣を切った11月開催の日本歌謡大賞岩崎宏美
最高の栄誉大晦日開催の日本レコード大賞は細川たかし。この時期はまだ賞レースは激烈を極めていて、当時は外国曲が対象街だったレコ大に入らなかった聖母たちのララバイが歌謡大賞に。細川たかしはレコ大に集中すべく歌謡大賞を岩崎宏美に譲る形となりました。矢切の渡しで翌年もレコ大受賞、初の2連覇遂げた細川さでしたが、この年も歌謡大賞はトシちゃんのさらば夏に譲ります。結果的に歌謡大賞取る事はありませんでした
。ほとんどの賞を受賞した沢田研も日本テレビ音楽祭は77年石川さゆりの津軽海峡冬景色、78年ピンクレディーのサウスポーに阻まれて大賞受賞はならずでした。最後の全盛期にあった沢田研二
。私はプロダクションの根回しが功を奏していたならなんらかの賞レースの大賞受賞は出来ていたと思います。
それが12月開催のテレ朝主催全日本歌謡音楽祭とフジテレビ主催FNS歌謡祭だったと思います。
結果を見ると全日本歌謡音楽祭が五木ひろしの契り、そしてFNS歌謡祭が松田聖子の野ばらのエチュードでした。
全日本歌謡音楽祭大賞の契り。ORICONチャート最高20位。ザ・ベストテン最高11位
沢田研二は昨年のス・ト・リ・ッ・パ・ーに続いて2年連続の最優秀タレント賞という中途半端な賞ももらいました。前年は寺尾聰のルビーの指環が断トツだったので喜んで居たけどこの年は流石に何でや!とテレビに向かって叫んでいました。
おまえにチェックインORICONチャート最高8位
ザ・ベストテン最高2位。大賞候補曲の6番目のユ・ウ・ウ・ツはORICONチャート最高6位、ザ・ベストテン最高3位。合わせ技でこの年、同窓会としてリリースされたザ・タイガース色つきの女でいてくれよはORICONチャート最高4位、
ザ・ベストテン最高2位と絶頂期に接近する動きを見せていました。そういう事か。泣きながら歌う五木さんをじくちたる思いで見ていました。
歌謡大賞岩崎宏美、レコード大賞細川たかしが分かっていたから残されたチャンスはレコ大前のFNS歌謡祭のみとなりました。この頃になると賞レースの仕組みが分かって来ていて、大賞前の○○賞という小さな互助会みたいな賞が来ると大賞受賞はないという事でした。だから私は大賞発表の最後まで沢田研二さんという名前が呼ばれないように祈っていました。4年前にLOVE抱きしめたいで同賞でグランプリを獲て以来、沢田研二は大賞受賞が無い。これがもしかしたら最後のチャンスかも知れないと。そしてその時まで名前は呼ばれなかった。来たでぇ〜来たでぇ〜。大賞発表来ても大丈夫なように五木さんのように拳を握りしめていたのに。呼ばれたのは野ばらのエチュードを歌唱した松田聖子さん。何でやねん!別にバッタもんみたいな賞もらわんでも良い。何で大賞じゃないんだよ!と。お化粧が涙で剥げて睫毛を黒くしながら健気に歌う聖子ちゃんを見ながらガックリ肩を落としていました。他にも元旦に発売されてORICONチャート最高10位、ザ・ベストテン最高6位の麗人と4作品もあったやん。百恵ちゃん抜いてシングル総売上1位になったやろ。色んな言葉が頭を巡りました。今冷静に考えれば、
赤いスイートピー、渚のバルコニー、小麦色のマーメイド、野ばらのエチュードとこの年出した4曲全てORICONチャート最高1位、ザ・ベストテンでも同様な動きを見せた聖子ちゃんが大賞受賞するのは当然だと分かるのですが。93年4月リリースの大切なあなたで沢田研二が11年間も持っていたシングル総売上1位に松田聖子がついた時も、淋しかったけど聖子ちゃんなら記録抜かれても許せるかなと思いました。でも、6番目のユ・ウ・ウ・ツを歌唱した沢田研二さん!という露木茂さんと芳村真理さんの「良かったわね。ジュリー」という声が聞きたかったです。
83年。日本歌謡大賞においてジュリーが五木さんにリベンジを果たす場面がありました。五木さんは大賞候補の5人の中に入れず。マネージャーがどういう事だと、審査員だった一人に詰め寄って暴行した事が後に発覚。ジュリーは金賞5人の中に入って最優秀歌唱賞受賞。これが賞レースで取った最後の大きな賞になりました。前の年82年では聖.少女や南十字星をヒットさせていた西城秀樹も5人の中に残れずに淋しそうにしているのを五木さんが慰めている様子をテレビで見ました。結果的に沢田研二は賞レースを勝ち逃げしたまま駆け抜けた感があります。
最後に賞番組に出たのは翌84年のメガロポリス歌謡祭。特別賞を渡辺プロ副社長の渡辺みささんから「ジュリーおめでとう」と受け取りました。賞番組に姿を見せるなんてあれ切りだったと思います。ジュリーはコンサート会場からありがとうございますと挨拶して渡り鳥 はぐれ鳥を歌いました。吉川晃司の台頭もあってこの年を持ってナベプロ退社したジュリー。良い惜別の言葉だったと思います。レコ大を除いて先に上げた賞番組は全て淘汰されました。賞レース最中に陣営同士で審査員の自宅の郵便受けに100万円の札束を入れて投票をお願いしたと週刊誌で読んだ事もあります。今思えばくだらないなあと思えるけど、裏を返せば当時の賞レースがいい年をした大人がそこまでさせるだけの影響力と価値があった。歌が人々の心に届いていた。そんな気がします。
日本レコード大賞の最高視聴率は沢田研二が勝手にしやがれで受賞した時の50%超え。今は恐らく二桁行かないでしょう。昨年の受賞者が誰なのかさえも分からない。
91年の無量寺でジュリーはそんな事にも思いを馳せていたのかな?でも82年は何らかの大賞取って欲しかったし、受賞して然るべきだったと思います。


も日本テレビ歌謡祭は77年は石川さゆりの
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