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PANTAさんの訃報で思い出す、深夜放送ファン別冊(1973)

2023年07月10日 | JULIE メモリーズ

女性セブンの記事がネットで読めました

沢田研二、75才で全国ツアーを完走 輝き続ける“ジュリー”を『女性セブン』秘蔵写真で振り返る

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NEWSポストセブン

 

 

ジュリーを見出しにすれば、閲覧は増えますものね。

 

ジュリーにも楽曲を提供の頭脳警察PANTAさん 「反骨」の裏に多彩な引き出しと優しさ〈dot.〉

「世界初のパンク・バンド」「日本語ロックの元祖」などと評される頭脳警察のPANTA(本名=中村治雄)さんが7日、肺がんによる呼吸不全と心不全のため、東京...

AERA dot. (アエラドット)

 

もちろんジュリーの「月の刃」は名曲。記事の中にCMソングを歌ったとありますが、私が一番印象に残っているのはPANTAさんのCMソングのレーザー・ショック。過激なロッカーのイメージというよりも、耳に残るフレーズが覚えやすい曲でした。それが何のCMだったか、覚えていなかったけれど、TOYOTAだったそうな。大企業のCMだから、私も覚えていたのかな。

調べてみたら1982年だったようで、ジュリーが日産のCMに出ていた頃とかぶりますね。

 

第69回「レーザー・ショック① 〜TOYOTAからのCM依頼〜」 - コラム | Rooftop

以前より、プロモーションとしてのTVコマーシャルとの関わり方をどうする...

Rooftop

 

CM映像はこちらで⇒第73回「レーザー・ショック⑤ 〜レーザー革命〜」 - コラム | Rooftop

PANTAさんを詳しく知らないが意外にフツウの声、もっとアップテンポでもっとシャウトして、もっと過激なアレンジでもいいよね、と当時TOYOTA社のCMにしては物足りない感じが、私はしました。わざわざPANTAさんを起用するのはTOYOTA側は、攻めの姿勢ですよね。

よくよく考えていたら、PANTAさんを知ったのは音楽ではなくて、1973年の深夜放送ファン別冊で名前を見たからだったと思い出しました。別冊はどこにしまったのか思い出せず、ようやく探しだしてきました。拓郎さんや永ちゃんのコメントもあったのは、もう50年も前なので覚えていませんでした。

PANTAさんの「ジークフリートみたいな奴」というコメントがすごくカッコよくって、覚えていたんだと思います。もっとも、この時は誰も50年後のジュリーを想像することはなかったと思います、それは私も。ジュリーご本人だって75歳の自分の姿を考えることは無かったでしょう。

昨日の新聞に、梶芽衣子さんの昔のアルバムが海外で発売されたと載っていました。恨み節、歌えます~(^^) 皆さん、息が長いです。

1973年、「危険なふたり」を発売した頃。誌面にはジュリーを支えた懐かしい面々の写真もありました。

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3 コメント

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Unknown (高杉セブン)
2023-07-11 06:41:48
酒も強い。絶対に芸能界でくたばらない。
吉田拓郎さんが言った通りになりました。
私の2個下の友人がアルフィーのファンで前に
高見沢ってジュリーの格好に煮てない?って聞いた時のにだって、高見沢、沢田研二のファンだからって言っていました。遥かに遠い夢と灰とダイヤモンドで一年ぶりに夜ヒットで復活した時のトリが安全地帯で年間ベストテンで1位になった悲しみにさよならを歌唱。歌う前にジュリーと玉置浩二の邂逅がありました。
小学校の時に旭川でザ・タイガースのコンサートを見たのが歌手になろうと思ったきっかけだった
。ジュリーは憧れの人だったと。それで握手をしたのを思い出します。友人が言ったのと当時の夜ヒットは共に1985年7月。アルフィーも安全地帯も絶頂期でした。その後、10年くらい経ってジュリーはクレスタのCMでYMOの高橋幸宏と玉置浩二と共演してストーンズのタイム・イズ・オン・マイ・サイドを歌唱。アルバム愛まで待てないに1作提供してもらっています。
永ちゃんも当時は沢田研二は最高だと持ち上げてくれているけど、銀座ナウに出始めのキャロルが出演した時は司会のせんだみつおにせんださんと挨拶したのが、半年経って売れて再会したら、せんちゃん元気?に変わっていたと。
鈴木ヒロミツがモップスの前座がキャロルだったと言ってたから当時は鈴木さんとキチンと挨拶したと思います。当時のジュリーへのリスペクトはあったと思いますが、今はそんな感じじゃないかと。永ちゃんはハッタリ噛ます所あったから話半分に聞いています。でも当時あそこまで言わせた沢田研二はやっぱり凄いと思う。
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Unknown (高杉セブン)
2023-07-11 07:09:14
キャロルの前座で対バンした時のRCサクセション。清志郎がMCでキャロルのみんなは楽屋でウンコをしています。永ちゃんもとやって会場が大ブーイングを浴びたと出ていました。ウンコまってたかも分からりませんが、永ちゃんもしょうがねぇ奴だなと思っていたかも。ジュリーの楽屋に挨拶なかったというのもなんか分かるような気が
。食えない人でしたね。清志郎さんは。
PANTAさんはあの当時、拓郎さんや永ちゃんと共にコメント求められていたのだから、知る人ぞ知る凄い人だったのだな。日劇ウエスタンカーニバルで書けないようなど偉い事をやらかしてたし。
この方も危ない困った方だったのが分かります。
saoさんの高校の先輩にレスリーマッコーエンの奥さんがいたのですね。あんまり経歴とかは見ないけど、あちらの業界もジャニーさんのような方がいたのだなと痛ましい思いでした。ジュリーもナベプロで正解でした。ジャニーズ事務所だったらあの美貌だったし。でも怖い人だからいてこまして事務所辞めてただろうなきっと。
ジャニーさんが、タローになんでタローにこんな話をしたと文春だったかに出ていました。タローちゃん、なんでジャニーズ解散したか分かる?タイガースが出てきたからだよと。
ジャニーズはジュリーは作らないとフォーリブス初めとするグループ輩出したのも沢田研二という金脈がいたからだと思います。俊ちゃんやマッチも元はたのきんトリオとして売り出されたし。唯一の例外が郷ひろみでした。でもひろみもよくファションとかジュリーの真似してたな。
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Unknown (sao)
2023-07-11 17:50:01
>高杉セブンさん、こんにちは。
高見沢さんも、玉置浩二さんも、アスカさんも、その他のミュージシャンも、60年代の後半から80年代半ばまで、第一線で活躍してきたジュリーを見て来た世代が影響をうけていないはずはないと思います。拓郎さんがファンだったと話したのには、ちょっと意外に思いましたが、ジュリーはそれほどの影響力を持っていたのだと思いました。
>『PANTAさんはあの当時、拓郎さんや永ちゃんと共にコメント求められていたのだから、知る人ぞ知る凄い人だったのだな。日劇ウエスタンカーニバルで書けないようなど偉い事をやらかしてたし。』
頭脳警察の曲はろくに知りもしないのに、そういう派手なパフォーマンスのみで知っている感じです。
なので「レーザー・ショック」はおとなしい感じさえして、CM曲だけど売れたの?と聞いてみたいです。

>『ジュリーもナベプロで正解でした。』本当にそうですね。ファニーズに誘われなければ、ジュリーほどの容姿なら他のどこかから誘われたでしょう。
もう数年前のMCだったかな?ジュリーが「フォーリーブスはペラペラの衣装を着ていた。」とか「ジャニーさんは関係ないのに、タイガースの車に乗り込んできて、隣に座ってジュリーちゃん売れると思うわ。」と言ったとか話していて、ジャニーさんの好みだろうなと思いました。ジャニーズに入らなくて良かったです。
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