幼いころ近所の大工だった親戚の家で餅つきをしたような気がするがおぼろげな記憶である。その後はたぶんお米屋さんの伸し餅を買っていたのだろう。東京の庶民はそういうのが普通だったのではなかろうか。大学二年の秋、弓道部の幹部交代の時だった。中りの率や練習の具合から主将かマネージャー(副将扱い)の有力候補二、三人の一人ではあったろう。しかし僕はその器でないと自覚していたし、通学生だったし、実験の方も忙しくやりたかったのでどう逃げようか考え、前任主将が「次のキャプテンは・・」と指名しかけた時、さえぎって「あのー、立候補して良いですか、僕は道場係をやりたいんですが」と申し出た。異例の展開となったが、主将には信州出身で駒場寮(府中なのに駒場を名乗るとは帝国大学農学部実科由来のため)に入っていた和田君、マネージャーには福山出身の大泰司君(下宿生)が就任した。それでよかったと思う。道場係はまあ道場の維持管理や道具の点検などが本務であり、外に巻藁を置いたりなんかしたのだったか。暮れになり、思いついて世田谷のぼろ市で中古の臼と杵を買ってきて正月に餅つき・新年射会をした。農学部だったし、地方出身の学生には餅つきの経験者が多かったので、僕は掛け声だけでことはうまく進んだ。つきたての餅はとても美味かった。焚火も良かった。確か次の正月にもやったのだが、臼の底が抜けてしまって、ごまかしながら搗いた記憶がある。その後引退、卒業および名古屋にいってしまったのでその臼と杵がどうなったのかは知らない。
30年ほど経過して、僕は都立大弓道部の部長(顧問)になっていた。練習の方は監督に任せてあまり口は出さなかったが、あの餅つきを味あわせてやりたく、臼と杵を買ってきた。今度は底が抜けないように石臼にした。一応餅つきはしたのだが、学生さんのノリはそれほどでもなかったような気がする 東京っ子が多いせいだろうか、僕も東京っ子だけど。そのころ、三宅島が噴火し、全島民が東京本土に避難してきた。事務局が考えたのだろうが、山仕事になれている島民の方にキャンパスの緑地整備をお願いすることになった(良いアイデアだ)。生物学科が一番関係深いだろうとその対応係となった。放棄林でわさわさしていたのがみるみるすっきりしてきた。人工的でなくうまく枝打ちなどを進める山の知恵に感心したものだ。そのお礼に、餅つき大会をすることになり、僕は弓道部の臼と杵を移動させた。温室管理の主事さんがボデイビルダ―だったので重い仕事をもりもりやってくれた。島民の方々もとても喜んで餅つき大会はおおいに盛り上がった。臼と杵はそのまま温室に置き、管理は学科の庶務委員会にゆだねた。僕らにとっては深刻な都立大改変・首都大移行がごたごたし、個人的な事情も起きたのでしばらくして僕は都立大学を去ることになった。次の立正大学に運ぼうかとも思ったのだが、庶務委員会に言い出しにくかったのでそのままにした。あの石臼と杵はいまどうしているのだろう。
(フェイスブックのお友達が餅つきにふれていたので反応してしまった)
30年ほど経過して、僕は都立大弓道部の部長(顧問)になっていた。練習の方は監督に任せてあまり口は出さなかったが、あの餅つきを味あわせてやりたく、臼と杵を買ってきた。今度は底が抜けないように石臼にした。一応餅つきはしたのだが、学生さんのノリはそれほどでもなかったような気がする 東京っ子が多いせいだろうか、僕も東京っ子だけど。そのころ、三宅島が噴火し、全島民が東京本土に避難してきた。事務局が考えたのだろうが、山仕事になれている島民の方にキャンパスの緑地整備をお願いすることになった(良いアイデアだ)。生物学科が一番関係深いだろうとその対応係となった。放棄林でわさわさしていたのがみるみるすっきりしてきた。人工的でなくうまく枝打ちなどを進める山の知恵に感心したものだ。そのお礼に、餅つき大会をすることになり、僕は弓道部の臼と杵を移動させた。温室管理の主事さんがボデイビルダ―だったので重い仕事をもりもりやってくれた。島民の方々もとても喜んで餅つき大会はおおいに盛り上がった。臼と杵はそのまま温室に置き、管理は学科の庶務委員会にゆだねた。僕らにとっては深刻な都立大改変・首都大移行がごたごたし、個人的な事情も起きたのでしばらくして僕は都立大学を去ることになった。次の立正大学に運ぼうかとも思ったのだが、庶務委員会に言い出しにくかったのでそのままにした。あの石臼と杵はいまどうしているのだろう。
(フェイスブックのお友達が餅つきにふれていたので反応してしまった)
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