先週末は休日が一日多かったので、その分、ハンナ・アーレントの「人間の条件」の「活動」の章を読んでいた。(おかげで日経ビジネスは読みきれなかった。)先日からのバーナードからの流れで、この際ついでに、「組織人の行動の哲学」を考えておこうとしたわけである。(ITの話題にも近づこうと思いながら、遠ざかるばかりであるが・・・)
ハンナ・アーレントは、20世紀の、ハイデガーとヤスパースの愛弟子の哲学者/政治哲学者である。人間社会が、全体主義(ナチス、スターリン体制、文化大革命)下におけるそれのように死んでしまわないための条件について考察することをライフワークとした。彼女自身がユダヤ人でナチス体制下から米国に逃れてきただけに、アーレントの「仮想敵」は「全体主義」であるが、「グローバル資本主義」を「仮想敵」として読んでも悪いことはないだろう。
アーレントの主著の一つ、「人間の条件」は、我々のいわゆる「仕事」を、
- 労働(labor)
- 仕事(work)
- 活動(action)
に分類し、そしてこの最後の活動(action)が人間を人間たらしめるものであって、人間社会を死に至らしめない条件である、とした。すなわち、活動(action)が「人間の条件」だと言っているのである。
活動(action)とは、人間が「機械」や「物」と一体化するようなものではなく、「個」の刻印が押されるものであり、「個」が暴露されてくるものであり、その活動と活動によって織り成されてくる織物(=公共空間)の中から「歴史の顔」が現れてくるようなもののことである。
歴史という概念をキーにしてこれをあえて言い換えれば、「何か大きな采配のもとで、天と地と人の意識が一体になったように思い、自分が自分でなく舞台の上に乗ったように感じる瞬間」というものが、人生の中で一回か二回あるのではないかと思うが、そのような瞬間を持続させることが、人間であり続けることなのである。日々ただあくせくと働き、消費している間は、我々は、ほとんど人間ではないのである。
このような考え方は、「カルヴァン派プロテスタンティズム」によって呪詛をかけられて資本家に転ずる前の、人が「神の子」であった極めて伝統ヨーロッパ的な考え方であって、今でもヨーロッパはこの考え方を根底に置くから、日本人を指して「エコノミックアニマル」と蔑称したようなことも出てくる。
そこには職人を尊ぶ労働観はないし、トヨタ生産方式やカイゼンのような世界も想像されておらず、つまり若干のバイアスと視野の狭さはあるが、しかし、そのような考え方は、ヨーロッパの背景にある伝統に裏打ちされたものである。
(アーレントの著書は、ある考え方を論評するにあたって、その考え方が生じてきたあらゆる伝統を参照しながら、その妥当性と限界を裏付けていく方法をとる・・・ハイデガー的。その意味で、彼女の著作はヨーロッパ思想百科事典の趣を呈する。)
IT化、グローバル化、経済の成熟化の中で、仕事観/労働観が大きく変化しつつある中、私達の仕事は本来どのようなものでなければならないのか、ということを思いっきり哲学的に振り返ってみることは正当なことだろう。
労働学者や経営学者によってハンナ・アーレントが参照されたことは全くないと思うが、ひとまず真面目に、労働(labor)、仕事(work)、活動(action)の区別が私達のジョブデスクリプションに反映できないかどうか、また、活動(action)の場を生み出しうるような企業の条件とは何か、ということを少しだけ考えてみようと思ったのである。どうでしょうね。