人材マネジメントの枠組みに関するメモ
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東京穀物商品取引所が、「コメ先物試験上場」の認可申請を農水省に提出したが農協の反対圧力で許可が下りず、(戦時中に停止された)コメ先物取引の再開はならなかった、これからも再開に向けてチャレンジしていくとのこと。コメ先物取引はなくても困らない、というのに何故コメ先物取引の再開なのか?森実理事長によれば、その理由は、「取引所の職員にとってコメ先物の復活は一種の遺伝子・・・先祖返りへの熱望があるんですよ。」とのこと。

遺伝子?先祖返りへの熱望?いったいこれはどういうことか?その理由が正当であり、また重要であるとすると、それはどういうことか?コメの先物(デリバティブ)取引に参加することによって市場参加者の売買能力やモラールが高まり、ひいては日本のマーケット関係者のレベルが高まっていくのだろうか?・・・実はまさにそうなのではあるまいか、と考えてみる。

デリバティブの世界は難しい。先物、オプション、プット/コール・・・実感をつかむのが難しい。日本人はデリバティブに弱いのではないか?バブルの頃だが、日本の銀行は資産額では世界のトップになったが、デリバティブを駆使した複雑な金融取引の世界では英米系のチームに全く歯が立たない、とバンカーが嘆いていたのを思い出す。(最近は変わったのだろうか?)

さて、そのようなデリバティブ力も、コメのデリバティブを通じて高まってくるに違いない、と考えてみる。(デリバティブの)仮想経済の世界は、(モノの)実体経済を、人々の知覚と想像を介して、映し出したもの。仮想経済の動きの理解は、実体経済の動きの理解との関係の中で、深まっていく。実体経済の動きに対して確固たるセンスがあればこそ、言い換えればファンダメンタルズ(基礎となる条件)に対して深いセンスがあればこそ、ファンダメンタルズの変化に対してマーケットがどのように反応していくのか、マーケットというものの性格に対するセンスが鋭敏になる。

センスを鋭敏にするには「基準点」がはっきりしている方がいい。たとえば、「良く知っている会社」の株を20年持ち続けながら、その会社の業績の浮き沈み、経済の浮き沈み、株価の浮き沈み、を体感し続ける方が、闇雲に売り買いするよりも、マーケットというものの理解が深まるだろう。(仮想経済には仮想経済の法則がある、という考え方では、おそらく、センスはあまり磨かれないだろう。)

そして、このように突き詰めていくと、究極の「基準点」となるような実体マーケットは、(今ここで日本語で読み書きしている)我々にとっては、「コメ」以外にはあるまい。コメ先物取引に参加することで、マーケットの性質を体で覚えることになる。それだけでなく、江戸時代から連綿と蓄積されてきた「コメ相場の格言」が次々と意識の表面によみがえってくるかもしれない。そしてそれは、マーケットを体で覚えるための好循環を生み出す。

世代を超えて続いていく「伝統」のないところ、真のナレッジはない。

(全くの付記)日本人はデリバティブに弱い?時間軸での抽象的な思考に弱い?抽象世界で瞬間的に切った貼ったの勝負をすることはアングロサクソンの連中に適わないのではないか?・・・と何となく考えている人は多いと思うが、そういえば、日本語と英語とでは時制の緻密さが全然違うな・・・と考えてみたりする・・・

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