漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

吉原百人斬り

2009年08月11日 | 歴史
世間の話題になった事件を、
まだ記憶の醒めぬうちから劇化する、と、云うのは、案外に新しいことのようです。

能・狂言は、
現存するプロ演劇では、世界最古だそうですが、

その中に、
平敦盛や小野小町のような実在の人物が登場しても、

その内容は、
平家物語や伝説を元にした後の世の創作。

少なくとも直近の事件を、
即席で演劇化したと云う点では、

近松門左衛門の「曾根崎心中」辺りが、
「時事ネタの劇化」の始まりと云う事になるのでしょうか。

なにしろ、
実際に心中事件が起こった次の月には、

もう、人形芝居として、
道頓堀の舞台に掛けられていたと云うのだから素早い。

しかも心中した二人の名、
お初・徳兵衛をそのまま使ったことも世間の関心を引いたことでしょう。

この芝居は大当りし、
破綻寸前だった竹本座を一気に立て直しています。

著作権と云う概念のない当時、

たちまち周辺の芝居小屋が模倣し、
ついには江戸の歌舞伎芝居にも飛び火してます。

処でこの事件は元禄十六年(1703)のことで、
いまだに文楽や歌舞伎で演じ続けられている分けですが、

この七年ほど前、
元禄九年に起きた事件で、いまだに演じられている有名な芝居があります。

こちらの事件の舞台は大江戸、
「日銭千両、鼻の上下にヘソの下」とも云われた花の吉原、

芝居町、魚河岸それに吉原は一日千両の金が舞い、
それぞれ、鼻の上の「目」、下の「口」、それにヘソの下を楽しませる、と云う分け。

しかも当時全盛の、
花魁(おいらん)が殺されたと云う事件。

なるほど、芝居になりそうなネタです。

ただしこの事件は、
すぐに劇化された分けではなく、

長い間、講談の「吉原百人斬り」として伝えられ、
そちらで有名になり、後、明治になってから歌舞伎化されたものです。

珍しい事に、
その事件を記録した古文書が残っているのですが、

ただし「百人斬り」は脚色であって、
実際の事件の死傷者は二人に過ぎませんけれどもね。

その記録の書かれた時代は元禄、
「生類憐みの令」で名高い徳川綱吉の治世です。

「お犬さま」の始まりかけたころでしょうか、

ちょうど六年後の同日、
「赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件」が起こってます。

以下の文中、
「野州(やしゅう)」は、下野(しもつけ)の国、今の栃木県。

また当時の高級遊女は、
置屋に抱えられており普段の暮らしはそこでして、

客の求めに応じて、
貸し座敷の茶屋に出張する形をとっていた。

つまり、デリバリーヘルス。(笑)

遊女・八橋(やつはし)は、
寝起きもしている兵庫屋から、お茶屋・橘屋へ派遣され事件は起こります。
  
  ~~~~~~~~~~~~~~

元禄九年、十二月十四日、

吉原江戸町、二丁目分の中之町、
橘屋長兵衛と申す茶屋にて、

野州佐野領 旅人 次郎左衛門 、
二丁目の兵庫屋・庄右衛門抱え 八橋を二階にて切り殺しそうろう。

源兵衛と申す男飛び上がり、
次郎左衛門に組み付きそうらえ共、

強力の上、
抜刀を振り回しそうろうに付き、

相かなわず逃げ降りそうろう所を、
後より肩先を切られ、源兵衛、大門四郎兵衛方へ駆け込みそうろう。

その内に近所の者ども駈け集まり、
屋根をめくり天井を突き落とし外よりは格子戸を突き破り

梯子など用いて次郎左衛門を追いそうらえば、

次郎左衛門たまりかねそうろうや、
庇(ひさし)へ出でそうろう処、

その庇より滑り落ちそうろうて、
下にて待ち請けそうろう者共梯子にて押え、相捕えそうろう。

一旦は会所へ入れ置き、
川口攝津守様へ申し上げ御検使下され、

翌十五日、
召し連れまかり出でそうろう。

右、次郎左衛門、
下野、佐野名主小松原次郎左衛門と申す者の由(よし)。

  ~~~~~~~~~~~~~~


記録はコレだけ、

従って客の次郎左衛門と遊女の間に、
どんなトラブルがあったのかは分からないし、

なぜ殺したのかも不明。

ただし人の集まる遊郭で、
高級遊女を殺したのだから江戸中の大評判になったろう事は確か。

ただ、死者は一人だけで負傷者も一人。

当時の関係者も、
後に「吉原百人斬り」と脚色されるほどの大事件だとは思わなかったろう。

実態を知れば、
後の芝居や講談ほどの派手さはなく、

意外に地味な事件だったと云えなくもない。


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歌舞伎ファンならお気づきのとおり、
吉右衛門の十八番「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとのえいざめ)の
モデルとなった事件と思われます。





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