世間の話題になった事件を、
まだ記憶の醒めぬうちから劇化する、と、云うのは、案外に新しいことのようです。
能・狂言は、
現存するプロ演劇では、世界最古だそうですが、
その中に、
平敦盛や小野小町のような実在の人物が登場しても、
その内容は、
平家物語や伝説を元にした後の世の創作。
少なくとも直近の事件を、
即席で演劇化したと云う点では、
近松門左衛門の「曾根崎心中」辺りが、
「時事ネタの劇化」の始まりと云う事になるのでしょうか。
なにしろ、
実際に心中事件が起こった次の月には、
もう、人形芝居として、
道頓堀の舞台に掛けられていたと云うのだから素早い。
しかも心中した二人の名、
お初・徳兵衛をそのまま使ったことも世間の関心を引いたことでしょう。
この芝居は大当りし、
破綻寸前だった竹本座を一気に立て直しています。
著作権と云う概念のない当時、
たちまち周辺の芝居小屋が模倣し、
ついには江戸の歌舞伎芝居にも飛び火してます。
処でこの事件は元禄十六年(1703)のことで、
いまだに文楽や歌舞伎で演じ続けられている分けですが、
この七年ほど前、
元禄九年に起きた事件で、いまだに演じられている有名な芝居があります。
こちらの事件の舞台は大江戸、
「日銭千両、鼻の上下にヘソの下」とも云われた花の吉原、
芝居町、魚河岸それに吉原は一日千両の金が舞い、
それぞれ、鼻の上の「目」、下の「口」、それにヘソの下を楽しませる、と云う分け。
しかも当時全盛の、
花魁(おいらん)が殺されたと云う事件。
なるほど、芝居になりそうなネタです。
ただしこの事件は、
すぐに劇化された分けではなく、
長い間、講談の「吉原百人斬り」として伝えられ、
そちらで有名になり、後、明治になってから歌舞伎化されたものです。
珍しい事に、
その事件を記録した古文書が残っているのですが、
ただし「百人斬り」は脚色であって、
実際の事件の死傷者は二人に過ぎませんけれどもね。
その記録の書かれた時代は元禄、
「生類憐みの令」で名高い徳川綱吉の治世です。
「お犬さま」の始まりかけたころでしょうか、
ちょうど六年後の同日、
「赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件」が起こってます。
以下の文中、
「野州(やしゅう)」は、下野(しもつけ)の国、今の栃木県。
また当時の高級遊女は、
置屋に抱えられており普段の暮らしはそこでして、
客の求めに応じて、
貸し座敷の茶屋に出張する形をとっていた。
つまり、デリバリーヘルス。(笑)
遊女・八橋(やつはし)は、
寝起きもしている兵庫屋から、お茶屋・橘屋へ派遣され事件は起こります。
~~~~~~~~~~~~~~
元禄九年、十二月十四日、
吉原江戸町、二丁目分の中之町、
橘屋長兵衛と申す茶屋にて、
野州佐野領 旅人 次郎左衛門 、
二丁目の兵庫屋・庄右衛門抱え 八橋を二階にて切り殺しそうろう。
源兵衛と申す男飛び上がり、
次郎左衛門に組み付きそうらえ共、
強力の上、
抜刀を振り回しそうろうに付き、
相かなわず逃げ降りそうろう所を、
後より肩先を切られ、源兵衛、大門四郎兵衛方へ駆け込みそうろう。
その内に近所の者ども駈け集まり、
屋根をめくり天井を突き落とし外よりは格子戸を突き破り
梯子など用いて次郎左衛門を追いそうらえば、
次郎左衛門たまりかねそうろうや、
庇(ひさし)へ出でそうろう処、
その庇より滑り落ちそうろうて、
下にて待ち請けそうろう者共梯子にて押え、相捕えそうろう。
一旦は会所へ入れ置き、
川口攝津守様へ申し上げ御検使下され、
翌十五日、
召し連れまかり出でそうろう。
右、次郎左衛門、
下野、佐野名主小松原次郎左衛門と申す者の由(よし)。
~~~~~~~~~~~~~~
記録はコレだけ、
従って客の次郎左衛門と遊女の間に、
どんなトラブルがあったのかは分からないし、
なぜ殺したのかも不明。
ただし人の集まる遊郭で、
高級遊女を殺したのだから江戸中の大評判になったろう事は確か。
ただ、死者は一人だけで負傷者も一人。
当時の関係者も、
後に「吉原百人斬り」と脚色されるほどの大事件だとは思わなかったろう。
実態を知れば、
後の芝居や講談ほどの派手さはなく、
意外に地味な事件だったと云えなくもない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
歌舞伎ファンならお気づきのとおり、
吉右衛門の十八番「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとのえいざめ)の
モデルとなった事件と思われます。
まだ記憶の醒めぬうちから劇化する、と、云うのは、案外に新しいことのようです。
能・狂言は、
現存するプロ演劇では、世界最古だそうですが、
その中に、
平敦盛や小野小町のような実在の人物が登場しても、
その内容は、
平家物語や伝説を元にした後の世の創作。
少なくとも直近の事件を、
即席で演劇化したと云う点では、
近松門左衛門の「曾根崎心中」辺りが、
「時事ネタの劇化」の始まりと云う事になるのでしょうか。
なにしろ、
実際に心中事件が起こった次の月には、
もう、人形芝居として、
道頓堀の舞台に掛けられていたと云うのだから素早い。
しかも心中した二人の名、
お初・徳兵衛をそのまま使ったことも世間の関心を引いたことでしょう。
この芝居は大当りし、
破綻寸前だった竹本座を一気に立て直しています。
著作権と云う概念のない当時、
たちまち周辺の芝居小屋が模倣し、
ついには江戸の歌舞伎芝居にも飛び火してます。
処でこの事件は元禄十六年(1703)のことで、
いまだに文楽や歌舞伎で演じ続けられている分けですが、
この七年ほど前、
元禄九年に起きた事件で、いまだに演じられている有名な芝居があります。
こちらの事件の舞台は大江戸、
「日銭千両、鼻の上下にヘソの下」とも云われた花の吉原、
芝居町、魚河岸それに吉原は一日千両の金が舞い、
それぞれ、鼻の上の「目」、下の「口」、それにヘソの下を楽しませる、と云う分け。
しかも当時全盛の、
花魁(おいらん)が殺されたと云う事件。
なるほど、芝居になりそうなネタです。
ただしこの事件は、
すぐに劇化された分けではなく、
長い間、講談の「吉原百人斬り」として伝えられ、
そちらで有名になり、後、明治になってから歌舞伎化されたものです。
珍しい事に、
その事件を記録した古文書が残っているのですが、
ただし「百人斬り」は脚色であって、
実際の事件の死傷者は二人に過ぎませんけれどもね。
その記録の書かれた時代は元禄、
「生類憐みの令」で名高い徳川綱吉の治世です。
「お犬さま」の始まりかけたころでしょうか、
ちょうど六年後の同日、
「赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件」が起こってます。
以下の文中、
「野州(やしゅう)」は、下野(しもつけ)の国、今の栃木県。
また当時の高級遊女は、
置屋に抱えられており普段の暮らしはそこでして、
客の求めに応じて、
貸し座敷の茶屋に出張する形をとっていた。
つまり、デリバリーヘルス。(笑)
遊女・八橋(やつはし)は、
寝起きもしている兵庫屋から、お茶屋・橘屋へ派遣され事件は起こります。
~~~~~~~~~~~~~~
元禄九年、十二月十四日、
吉原江戸町、二丁目分の中之町、
橘屋長兵衛と申す茶屋にて、
野州佐野領 旅人 次郎左衛門 、
二丁目の兵庫屋・庄右衛門抱え 八橋を二階にて切り殺しそうろう。
源兵衛と申す男飛び上がり、
次郎左衛門に組み付きそうらえ共、
強力の上、
抜刀を振り回しそうろうに付き、
相かなわず逃げ降りそうろう所を、
後より肩先を切られ、源兵衛、大門四郎兵衛方へ駆け込みそうろう。
その内に近所の者ども駈け集まり、
屋根をめくり天井を突き落とし外よりは格子戸を突き破り
梯子など用いて次郎左衛門を追いそうらえば、
次郎左衛門たまりかねそうろうや、
庇(ひさし)へ出でそうろう処、
その庇より滑り落ちそうろうて、
下にて待ち請けそうろう者共梯子にて押え、相捕えそうろう。
一旦は会所へ入れ置き、
川口攝津守様へ申し上げ御検使下され、
翌十五日、
召し連れまかり出でそうろう。
右、次郎左衛門、
下野、佐野名主小松原次郎左衛門と申す者の由(よし)。
~~~~~~~~~~~~~~
記録はコレだけ、
従って客の次郎左衛門と遊女の間に、
どんなトラブルがあったのかは分からないし、
なぜ殺したのかも不明。
ただし人の集まる遊郭で、
高級遊女を殺したのだから江戸中の大評判になったろう事は確か。
ただ、死者は一人だけで負傷者も一人。
当時の関係者も、
後に「吉原百人斬り」と脚色されるほどの大事件だとは思わなかったろう。
実態を知れば、
後の芝居や講談ほどの派手さはなく、
意外に地味な事件だったと云えなくもない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
歌舞伎ファンならお気づきのとおり、
吉右衛門の十八番「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとのえいざめ)の
モデルとなった事件と思われます。