漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

吉原の遊女殺害事件

2009年08月12日 | ものがたり
【吉原狼藉の一件】

少し時代は遡るのですが、
江戸・吉原の記録から、狼藉(ろうぜき)事件をもう一つ。

「狼藉」は、
元々は、狼が踏み荒らした跡の意で、

「散らかす」の意味だったが、
やがて「乱暴」の意味も含むようになった。


吉原は、元和三年(1617)、

それまで市中各所に散在していた遊女屋を、
幕府が、日本橋 葺屋町に集めて公認したことに始まり、

後、明暦三年(1657)の大火で丸焼けとなり、
浅草に移されたため、

最初を「元吉原」、移されて後を「新吉原」と区別する。

この事件が起きたのは、
正保元年(1644)ですから、まだ「元吉原」の時代の話、

島原の乱から七年ほどですから、
まだ戦国の余風が残り、人心の荒っぽかったころ。

この事件にもそう云う雰囲気が出てます。

尚、以下の文中、
「揚屋(あげや)」は、
 客が、高級な遊女を呼んで遊興する店 。

    ~~~~~~~~~~~~~~

正保元年(1644)、三月五日、

元吉原中通り、
横町、揚屋(あげや)・甚左衛門(じんざえもん)方へ、

四国辺りの侍四人、
珠三(たまぞう)と申す 相撲取りを連れ、

京柳町・清左衛門が抱え
「かつら」と云う遊女を揚げて遊びそうろう処、

右「かつら」、
致し方よろしからずとて、侍ども暴れそうろうに付き、

かつら座敷を立ち去り、
そのほかの遊女も家々へ逃げ帰りそうらえば、

いよいよ荒々しく騒ぎそうろうに付き、
揚屋の者どもも、家の内をそのままに逃げ出しそうらえば、

侍ども、
内より戸を閉め、立て篭(こ)もる。

しかる処に、
江戸町・町役.重左衛門、揚屋(あげや)甚左衛門方へ駆けつけ、

「如何ようの義にや」と、

うかがえば、
内より侍ら出でそうろうて、重左衛門を人質に取り、

「ともかく、遊女かつらを連れ来たれ」と申すばかりにて、
一向にらち明かずそうろう内に、

右、重左衛門が倅(せがれ)十助、
角前髪にて十八才にまかりなる者、

父が人質に取られそうろう由を聞き付け、
右、揚屋に来たり、

「それに召し置かれそうろう者は、私が父にてそうろう、

 老年にて、
 何の御用にも立ちまじくそうろう故、御免じ下され、

 その代わり、
 私を御留めそうらえ」と、

嘆きそうらえば、聞き届け、
十助を留め置き、重左衛門を追い出しそうろう。

十助、しばらく有りて、
尿意を催ししむねを訴え、

侍たちの許しを得て、
二階物干しへ出で京町の裏へ飛び降り、

隣の義右衛門宅へ駆け込みそうろう処、

処々より、
棒、刺股(さすまた)にて、固め居りそうろう者ども、

何の見定めたる事もなく、
一度に取り掛かり散々に打ち据えそうろうに付き、

十助、即死いたしそうろう。

後に改めそうろう処、
腹に傷一ヶ所これ有り、手負いそうろうて飛び降りそうろう哉(や)。

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騒動を聞きつけた町役の年寄りが駆けつけ、
話し合いをしようとしたが、逆に人質に取られてしまった。

驚いた息子が身代わりを申し出、
隙を見て逃げ出そうとしたが、

事情を知らぬ人々が、
寄ってたかって袋叩き、撃ち殺してしまう、と大混乱。

尚、「刺股(さすまた)」は、
暴漢を取り押さえるための道具、

棒の先に、
二股の金具を付けた物で、西遊記の沙悟淨が持つ武器に似ています。

  
  ~~~~~~~~~~~~~~

その後、吉原五町、
町役ども「かつら」を召し連れて戸口まで参り、

色々に、
宥(なだ)め賺(すか)しそうらえども、埒(らち)明かず、

名主.甚右衛門、
町奉行.神尾備前守様へ訴え申し上げそうろう。

奉行所より、
与力方十騎、組人数.四十人くだし置かれ、

右、閉じ篭もりそうろう者ども すかし出し、
御捕えに成るべく思し召しにて、

神谷金大夫殿と云う御組、
家内をお伺いそうろう処に、格子内より脇差(わきざし)にて突きそうろう。

金大夫殿、腹を突かれ、
名主.甚右衛門方まで引き退(の)かれるも、

同宅にて、間もなく死去いたされそうろう。

そのまま時刻うつりそうろう内、

神尾備前守様、倉石見守様、
両御奉行様 共に大坂町の辻迄まで御出馬にて、

御組中の往き来あわただしく人の動き激し。

その内、
与力、戸口へ御出でにて、

閉じ篭(こ)もりそうろう侍と対談なされそうろう処、

如何なる事にや、

閉じ篭もりそうろう者ども二手に成り、
揚屋(あげや)をまかり出で、帰りそうろう様子にまかりなり、

町々の高張り提灯を引き、所々に一張りづつ残し置き、
人を払うべく申されたる由にて、御指図にまかせ、右の通りに仕りそうろう。

しばらく有りて、閉じ篭もりの者ども、
三人、二人と分かれ、

羽織をかぶり、
顔を隠しまかり出で立ち返りそうろう処を、

江戸町、川岸に御組 待ち請けられ、
御捕えなされそうろう内、

珠三(たまぞう)と云う相撲取り、
小刀を、斜(はす)にとり合わせ、口に咥(くわ)え居りそうろう、

捕えられそうろう節、
突き懸かりそうろうに付き、御組御ニ人、薄手負われそうろう。

五人ともに召し連れそうろう上、
牢舎(ろうしゃ)仰せ付けなされてそうろう。

その後、

遊女かつら召し出だされしも、
御吟味(おぎんみ)の上、別儀なく、

又、閉じ篭もりそうろう者どもは、死罪に仰せ付けられそうろう由。

揚屋.甚左衛門は所を払われ申しそうろう由。

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役人側の死者一人、負傷者二人となれば、当時としては死罪は免れない処。

舞台となった揚屋・甚左衛門の処払いは、

今の感覚だと、
気の毒なようだが、

当時は、宿屋などで客が騒動を起こせば、
不逞の者を泊めたとして、業者が罰せられるのが当たり前だったようだ。

この記事も、
事件の動機や詳しい理由はないが、

遊女がお構いなしだから、
食い詰め浪人が金も持たず登楼し、最初から暴れるつもりだったかもしれない。

時代は戦国の世が終り、泰平の始まり、

向こう見ずな暴れ者は、
戦乱の世には重宝だが、世の中が収まれば迷惑でしかない。

戦いがなければ、
武勇を看板にしていた者達の失業は避けられない、

時代の変化に付いていけない者の中には、
追い詰められ、自ら破滅の道を選ぶような者も居たのだろう。

乱世の英雄は、必ずしも治世の能臣とは成り得ない、

往々にして、
「乱世の英雄は治世の乱臣、賊子たり易い」と云うことの小型版と云う事だろうか。






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