海人の深深たる海底に向いてー深海の不思議ー

地球上の7割を占める海。海の大半は深海。深海生物、潜水調査船など素晴らしい深海の秘蔵画像を紹介。奇抜・奇妙な姿に驚愕!!

欧米が行ってきたクジラ漁

2015年11月18日 | 日記
欧米人によるクジラ漁      山田 海人

1.クジラの油だけが欲しかった
 欧米では16世紀から現在のエネルギー原料の石油のように燃料の油を、海を泳ぐクジラを殺してクジラの油(鯨油)を採っていた。 きっかけは座礁したクジラの処理からだった。皮をはがして煮て油をとると、その油が良く燃えたことがわかっていたからだ。もっとクジラの油が欲しいいと、座礁するクジラを待てずに沖を泳ぐクジラを捕りに行こうとクジラ漁が始まった。

2.捕鯨船とキャッチャーボート
クジラ漁の船は大きな捕鯨船と捕鯨船から降ろすキャッチャーボート(作業船)で構成され、油は木製の樽を容器にしていた。船の航海は長く1年から4年にもなり、食料は水とビスケット、塩漬けの肉、野菜(航海でもつのはタマネギ、ジャガイモ)であったが危険で過酷な航海から荒くれ者たちの船員で、航海中に病死(野菜不足から壊血病など)、事故死、船の遭難が多かった。船員の装備品
はナイフと火打ち石であった。(遭難した船員がナイフと火打ち石でサバイバルした記録も残されている。) 
捕鯨船が集めた鯨油は飛ぶように売れるのでエスカレートし、さらに大きな捕鯨船、キャッチボートが量産され、巨大な捕鯨のための産業ができていった。。
 
3.クジラの油
クジラの油は樽に詰めて移動・販売されていたので単位は「バーレル・樽」として販売名にはオイルとし、クジラの油とは明記されなかった。これは「海の哺乳類のクジラを殺して、油を採る」とは公然とは言い難いので、秘密のミッションとしてクジラの油は”単に燃料・オイルと表示し、クジラからのオイルと表示しない“ことにしたようだ。燃料の使用者には、秘密の油として”決して油の原料は海を泳ぐクジラ“とは明かさない。ただひたすらに「便利な魔法の油」とだけを伝えていたようだ。

4.家庭の灯り、街灯の灯り
暗い夜を明るくする魔法のオイルとして、家庭用、街の街灯にと、鯨油の需要はますます広がっていった。当時のロンドンの街灯は100以上もあったと聞いているが、そのすべてが”鯨油ランプであった。 欧米の当時の街灯、家庭の灯りの全てがクジラの油だったのだ。 クジラの油を灯すとかなり臭い、当時の日本では菜種油や魚の油を灯していたがクジラほど臭くはなかった。欧米で使っていた灯油がクジラの油と数百年も庶民は気づかないと言われているが本当だろうか? 誰もが灯油の原料に疑問を持たなかったのだろうか? 信じがたい。 石油が採れるようになるまで灯油はクジラの油が使われていたことは本当のことだ。
 
5.クジラの捕獲数
欧米の捕鯨船はどれだけのクジラを捕獲していたのだろうか?捕鯨船の残した記録にはクジラの捕獲数は書かれてなく、鯨油の樽(バーレル)の数だけであった  捕鯨の最盛期1846年にはアメリカは736隻の捕鯨船を持ち、捕鯨産業には7万人もが従事していた。イギリスなどの捕鯨船230隻も操業していたので、当時は1000隻もの捕鯨船で世界の海から1年間にクジラは何万頭も乱獲され、クジラを絶滅に追い込んでいったと思われる。 
 そんな中で唯一マッコウクジラは頭部に特殊で高級な脳油が採れたことから脳油換算してマッコウクジラだけ記録があり、1年間に、世界で1万頭ものマッコウクジラが捕獲されていた。こうして大西洋や東部太平洋のクジラを捕りつくすと手つかずの日本近海のクジラの捕鯨も行われ黒船が浦賀にやってきたのだ。

6..クジラを食用にしていた国
 第二次世界大戦後クジラを食用にしていた国は日本、ノルエー、アイスランド、デンマークの捕鯨国をはじめ韓国ではニタリクジラ、イルカを食べていた。フィリピン、インドネシアではニタリクジラ、マッコウクジラを食べていた。ニュージーランドのマオリ族は寄せクジラのマッコウクジラを食べ、アラスカのイヌイットはホッキョククジラを食べ、シベリアのチュクト人はホッキョククジラ、コクジラを食べていた。
一方、18世紀の欧米の捕鯨船は1航海が2年から4年と長かった。長い航海の食料は塩漬けの牛肉、豚肉、ビスケットが主だった。そのため乗員はマズイ、ムカムカするような食事で、ビタミンCの欠乏で壊血病になって死亡する者が絶えなかった。 私達からするとなぜ乗員は目の前のクジラの肉を食べなかったのだろう。ナイフで赤い生肉を切って食べていれば壊血病にもならず死ぬこともなかったはず。欧米人の乗員はクジラの肉を食べるぐらいなら死を選ぶ、だったのか。 そして欧米人は今でも言う「クジラを食べなければいけない理由はない」と。          おわり