イコンのもとに


在宅介護16年が終了後、やっと自分のために生きられる。イコンも描いてます。ブログは書いたり書かなかったり、気分で。

時を経て②

2024年02月20日 | 岡山
時を経て①の、記事の続きです。

磯田くんのラジオを聴いて
30年ぶりに解けたのは、
約30年前に明治生まれのある女性が発した一言なんです。

それは、
「あなたは子どもたちを、
下級武士の住む地に遊びに行かせるのか⁉️」という言葉です。
これだけ聞いたら、今ならすごい差別発言でしょ?
私も当時、そう思いました。

私たちの住んでいた岡山後楽園前の出石町から、
すぐ北の広瀬町へ子どもたちが遊びに行くだけなのに
下級武士の住む地に行かせるのか?と怒るわけです。
高齢者の認知の衰えとかあるにしても、若い頃の記憶からの発言でしょうから、
これはいったい何があったんだろう?
ただの差別発言ではないんじゃないか?とずっと思っていたんです。

この発言をした明治生まれのおばあちゃんは
当時、岡山後楽園門前でお菓子屋さんをしていたんです。
今はコンビニになっている場所です。
この時、
もうすぐ90歳と言ってましたから、生きていたら120歳くらい。
つまり、1900年くらいに生まれた人なんです。

1900年初めの出来事、コピペです。
義和団の乱(1900年6月)
マッキンリー大統領暗殺事件(1901年9月)
ライト兄弟初の動力飛行(1903年12月)
パナマ運河建設(1904年)
ロシア第一革命(1905年)
サンフランシスコ大地震(1906年)
こんな時代に生まれたおばあちゃんですから、
おばあちゃんの親の代は幕末〜明治初期です。

おばあちゃんの下級武士の話、
磯田くんがラジオで話した岡山藩(備前藩)が深く関わりのある
神戸事件(備前事件)を聞いて、この事件があったから、
下級武士が‼️という罵りとなったんだなと初めて理解しました。

神戸事件をネットからコピーしますと、
神戸事件は、慶応4年(1868年)1月11日に神戸三宮神社前において備前藩兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。

磯田くんの話によりますと、
1868年は明治元年で
岡山藩は西郷隆盛の招集により、江戸へ向かう途中、フランス軍に出会い、彼らが鉄砲を持っていて、
岡山藩の武士が「鉄砲だ、鉄砲だ」と言ったのを、
他の武士が勘違いして「発砲だ、発砲だ」と聞き間違えて、フランス軍に向けて発砲してしまい、戦争になってしまったというのです。
岡山藩は日本で初めて外国と戦った藩ということになるそうです。
聞き間違えて銃撃戦ですよ。
なんたることでしょう‼️
詳しくはYouTubeで検索すると、安住さんのラジオで磯田くんが話しています。

この事件の中心の武士たちが住んでいたのが、今の広瀬町あたりだったんです。
広瀬町は出石町からは、すぐそこで、大きな車道を挟んだ隣町なんです。
お菓子屋のおばあちゃんは、親たちから下級武士がしでかした事件を聞いて育ったに違いないんです。

今の私たちは、何にも知らなくて、
もちろん差別はダメだと聞いて育ってますから、
おばあちゃんの下級武士を憎む気持ちは全くわかりませんでした。

昔の人は自分の住む世界がすごく狭くて、すぐ近くに地獄があったり、天国がある感覚ですから、
隣の町内でさえ、別世界の人間が住む町だから、
そこへ子どもを遊びに行かせるとは、なんたる母親だと
おばあちゃんは怒ったんでしょうね。
磯田くんの神戸事件の話から、長年の疑問が解けたのでした。
昔の話は、今の感覚で考えたらいけませんね。
今の感覚では理解できません。
ラジオでは、この事件に絡んだ磯田くんのご親戚の話も聞けます。
歴史好きな方はぜひ聞いてみてください。

宇多田ヒカルちゃんのご先祖様も備中高松城水攻めで
泳いで行ったり来たりして大活躍されたそうです。
これも磯田くん情報です。
子孫が有名になると、こんなことまでバレるんですね〜。

磯田くんプロデュースで岡山城が新しくなり、
前は改装するまでの長年で4万人の観光客だったのが
改装後1年で4万人を超えたそうです。
新しくなったのもあるけれど、磯田パワーはすごいですね。
磯田くんも言ってましたが、
ぜひ宇喜田秀家を大河でしてほしいです。
おもしろいんだけどな、備前藩や津山藩の歴史。
大河になるには、地味かなぁ?
我々、遠い先祖の森蘭丸なんかもいるんだけどなぁ。
BL推し、がんばってくれないかなぁ。


追記 2024年5月7日
RSKのイブニングニュースで拝見しました。

神戸事件の責任をとって、
備前藩の長の瀧善三郎は切腹をしました。
満30歳でした。
神戸事件の唯一の死者であり、日本を救った人です。
曽孫さんが神戸の瀧善三郎の切腹した近くの記念碑を訪ねられていました。

瀧善三郎という人がいたことを私は今まで知りませんでした。
(明治政府が汚点として隠そうとしたため)
今、岡山では瀧善三郎のことを伝えていこうという活動が始まっています。

歴史は一方から見るだけでは理解できなくて、
いろんな方向から見なきゃ本当の理解はできないと思いました。
岡山市民としては、
瀧善三郎と神戸事件のことは伝えていかなきゃならないですね。




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