最近、また自分で車を運転するようになった。
私は免許を取って40年以上も経つけれど、実際に運転していたのはほんの短い期間だ。山間部の村に住んで、車なしではどうにもならなくなった?時期と、あとは子どもたちが学校をやめた後ほんの数年、子どもの「アッシー」をしていた間だけ。
元々、運転はあまり好きになれなかった。
自動車学校は大嫌い(学校と名のつくモノとは大体において相性が悪い(^^;)だったし、それ以上に運転そのもの(というかソモソモ運転席に座ること自体?)が、曰く言い難い不安感・危険感につきまとわれるので、好きになりようがなかった・・・という感じ。
だから、(親に急かされて)免許は仕方なく取っただけで、学生時代はもちろん、卒業後も運転する機会は無かった。自分としては、それで全然構わなかった。
けれど、結婚して家族の転職に伴って転居を繰り返すようになると、運転しないのはワガママ・・・という気がしてきた。家を新たに探す時、「郊外」の物件ではダメで、家賃の高い町中で探さなければならない・・・とか、長距離を移動するとき運転を交代出来ないとか、申し訳ないな・・・と思うことは度々あった。
それでも、私は自分から運転するとは言わないことが多かった。
自分では、ただただ「恐い」から運転しないのだと思っていたので、自分の臆病さに呆れたし、悄気た。でもその一方で、誰しも免許を取れば、しばらくは危なっかしくてもそのうち慣れて、そのまま何でもなさそうに運転するようになる(らしい)のが、正直不思議でならなかった。
「どうしてあんな恐ろしさを、平気になってしまえるんだろう」 ・・・私はそれほど怖かったのだ。
だから、どうしてもという必要に迫られて運転していた頃には、本当に緊張して車に乗っていたと思う。
話しかけてくる子どもに(上の空ながらも)返事をしつつ、もう片方で「危険がない」ことを常に確認して運転していたわけで、慣れない者にとっては緊張するのは当然としても、私の「怖がり」よう、緊張の仕方はちょっと度が過ぎていると自分でも感じた。
子どもが成長し、(小さな地方都市なので)どこへ行くにも自転車・・・という年令になると、私はまた自然に運転しなくなった。引っ越しを繰り返すこともなくなっていた。自分の実家が、タクシーを使うのに抵抗のない家だったこともあるのかもしれない。必要なときには、私もタクシーを使うようになった。
ところが・・・
今回、がんのことで通院するクリニック、入院する病院が自宅からかなり遠いので、手術が終わって一段落したら、車の練習をして自分で通えるようにしよう・・・と、思うようになった。
路面電車やバスではちょっと不便で時間も結構かかるので、化学物質臭に弱くすぐ気分が悪くなる私としては、いい具合に中古になって新車のニオイもしなくなった自宅の車が一番ラク・・・という、単純な理由からだったのだけれど・・・
以前の私だったら、たとえどんなに必要に迫られても、まだ傷が治りきってもいない時期から「運転の練習をしよう!」なんて、ソモソモ思いつかなかったと思う。
それなのに・・・
退院後間もない時期から、いつもの朝の散歩をやめて、起きたらそのまま車の練習に出るようになってしまった。
朝早い方が、他の車のジャマにならないだろう・・・と思ったからだけれど、早朝走っている車は当然、スピードを出している。「エライことになった・・・のかな?」と思いながらも、出不精の自分がそれでも行く可能性のある場所を考えて、何日間かあちこち往復してみた。結構ハプニング?もあって、ドキドキハラハラもしたけれど、「運転って始めると案外面白いのね。時間がどんどん過ぎちゃう」などと思ったりする自分に、ちょっと驚いた。
一番困ったのは・・・実は、「運転」以前のコト。「今時のクルマ」というのを理解して、それに慣れるのにしばらく時間がかかった。
キーが無くても(近くにあれば)クルマはドアもあくし、エンジンもかかる・・・とか、サイドミラーが片付けてあるけど、どうしたら(適度に)開いてくれるの?とか、何か警報音が鳴ってるんだけど、一体何がイケナイの??とか。
勿論、運転手の方が問題・・・というのも結構あった。(例えばギアがPではクルマは微動だにしない・・・とか、サイドブレーキを引いたまま走っちゃイケマセンとか。一度など、なぜか渋滞中で、大きな交差点の真ん中に取り残されかけたり。勿論なんとか逃げ切ったら、その後は・・・などなど)。
要するに・・・
練習してみて判ったのは、「運転」というのは「その程度のモノ」だったのだということ。
恐いといえば、最初は恐い。というか、今でもまだ「免許取り立て」状態なので、私もコワイと思ってるけど、外から見たら「コワイ運転してるなあ、あのクルマ」状態でもある。でも、その「コワイ」と私が長年思って来た「怖い」とは、種類も次元も違ったものだった。
私は、今回運転をするようになって初めて、運転席に坐ってもあの「異様な離人感覚」が起きないのに気づいた。
そして、「離人症状」さえ無ければ、ああいう表現のしようの無い「怖さ」は無いのだ・・・ということに、少しずつ慣らされていったような気がしている。
「なあんだ・・・。
あれじゃ、怖くて当たり前。よく事故らなかったなあ。あれほど気をつけてたから、なんとかトラブルが起きずに済んだんだなあ・・・」
大体、「離人症」っていうのは「見えるモノに現実感がない」状態なんだから、運転席から見える歩行者も、他のクルマや二輪も、「生身の人間(が乗ってる)」っていう感じは薄い。
ゲーム画面のよう・・・というのとも違って、「現実」だということはちゃんとアタマでは解っている。
でも、例えば赤信号の「赤」は、鮮やかな赤には見えないこともある。体調その他によっては、現実の色彩が褪せて無彩色に近く見えたりする。そして、フロント硝子を透して見る風景・情景だと、それは増強され易い。
元々「離人症」「離人感覚」というのはそういうものなのだ。
運転なんか、(少なくとも私の場合は)ホントはしない方が良かったんだ。自分じゃ気がついてなかったけど、「離人症」のある状態で「運転席に座る」っていうのは、本当にアブナイことだったんだ。
それなのに、私は自分の臆病さのせいだと思ってた・・・
そんなことが、ジワジワと解ってきた。
運転していた当時は、今の私よりは当然若かったし、今よりも少しは慣れていて、しかもとても注意して運転してはいたのだけれど・・・それでも、今の私の「雑な」運転の方が危なくないんじゃないか・・・と本気で思った。
その後、時間が経って・・・私はふと、全く別のことを思うようになった。
「あの頃運転しようとしなかった、自分を褒めてやりたい」
本能的に、自分が運転するのはあまりに危険だと感じ、ヒトからどう見られても、「自分が納得しない限り運転はしない」 と決心?していた自分を、私だけは褒めてやりたい・・・と。そして、ソンナコトを思うようになった自分に、もう一度驚いた。
以下は、ちょっと違う話になるのだけれど・・・
がんの手術が終わった後、私はなんとなく「何かが終わった」という気持ちになった。
化学物質過敏症の予備軍のような症状に悩まされるようになったのは、7~8年前のこと。姉から電話が毎日のように掛かるようになったのとほぼ同じ頃だ。
姉の電話が発症?の引き金の一部になってると思う・・・と、古くからの友人(精神科医)に電話で言われた話をしたら、上の息子はあっさり、「そうだよ」。
「えっ、アナタもそう思うの?」
「もちろん」
でも、その頃はまだ、私は自分のしていることが自分の身体にどういう負担を強いているのか、自覚出来ていなかった。ただ、事情をある程度知っている友人と、居間で姉からの長い電話に出ている私を見てきた?息子の両方が、まったく躊躇わずにそう言い切ったのが記憶に残っただけだった。
今回「がん」が見つかった時も、私は驚きはしたけれど、姉のことと関連づけては考えなかった。
なのに手術の後、病院のベッドに横になって、私は初めて、自分でも「こういう暮らしを続けていてはいけない」と、突然気づいた。こういう「免疫機能が低下したり乱調したりするような」暮らし方・生き方は、これでお終い。もうやめよう。
気が立っていたのだろう。入院中は夜よく眠れないことが多かった。
私はひとりでよく思った。
「これでお終い。私に出来るだけのことは、私はこれで全部した。支払えるモノはすべて支払ったんだから・・・もう、これでおしまい」
そう思ったときの、肩の荷がすうっと消えていったような解放感を思い出す。
私にこれまでのしかかっていたモノが何だったのだとしても、その重さは相当なものだったんだと改めて思った。私が最後まで担い切れたのだとは到底思えないけれど、それでも・・・「もうお終い」なのだと。
「離人症」の感覚が薄れてきたのは、そういうことも土台にあるのだろう。(そもそも60歳という年令で、子どもの頃からの「離人感覚」が残っているというのもヘンな話ではあるけれど)
ふと、今、眼の前で死のうとしている人がいたら、私はもう必死で止めるだろうな・・・と思った。「とにかく今はやめときなよ」とだけ言って。
胸を張って言えるようなコトじゃないけれど、若い頃も中年になってからも、私は結構危なっかしいところを歩いた気がしている。けれどその一方で、「なぜ自分がソンナコトになったのか、いつか判る時が来るはず」という気持ちを、どこかに持ち続けてきたのかもしれない・・・とも思う。
それでも、この歳になって、「あの時の(出来なかった、しようとしなかった)自分を褒めてやりたい」などと本気で思うようになろうとは、正直思ってもみなかった。
出来ないことはできない。出来ないときにはできない。それは当たり前のこと。
そんな話を上の息子にちょっとだけした。すると彼は
「いくつになってもヒトは成長する。転機は訪れる・・・っていうのは、ホントにいいことだとは思うけど・・・でも、それが60歳っていうのは、いくらなんでも・・・って思わない?」
「全然!」と即座に言った私を、彼は「信じられない・・・」という目で見た。
あ、そうかあ・・・
60歳も何も、私はこんな時が現実に来るとは、本当は想像もしていなかったのだと、その時初めてわかった。来るんだったら、それが60でも80でも構わない。もしも本当に来るんだったら・・・私は、そんな風に思っていたのだと思う。
出来るものなら、そこまでみんな生き延びてほしい・・・そんな気持ちを、以前よりずっと強く持つようになった。
ここまでを読み直して、たかが「運転」の話から、ずいぶん大仰な書き方になっちゃったなあ・・・と、ちょっと呆れている。でも、ここに書いたのは、この1ヶ月ちょっとの間に私が実際に経験したこと、本当に思ったことなので、仕方がない。
病院で感じていたあの解放感も、運転が特別なコトじゃないとアッケラカンとわかってしまったときの驚きも、一度書いておきたかった。文字にして固めてしまう?ことで、さっさと片付けて先に進みたい。そんな不敵?なことを、もしかしたらどこかで思っていたのかもしれない(^^;。
来週からは、いよいよ「週5回・5週連続」の放射線マラソン~♪が始まる予定。どんな9月が待ってるのか、好奇心もムクムク・・・(^^)。
(ひとつだけお願いが。「離人症」でも運転を日常的にしておられる方は沢山おられると思います。この記事に書いてあるのは、あくまで私のごく個人的な体験についてのもので、決して一般論ではありません。これまで同様、素人が書き散らしていることなので、どうぞ読み流して下さいますように)
元気にしておられましたか~(^^)。(今は東京にお住まいなんですね)
長い記事を読んでくださってありがとうございました。
実は今、自分の書いたのを読み返して
1年前にはこんなこと考えてたんだ・・・って
なんだかシミジミしてしまいました。(読み返す機会ができて良かった!)
運転は、今も本当に必要なときしかしないので、
(「歳のせい」ももちろんあって)全然上手になりません。
「生来不得手」な方なんだと思いますが、「必要なとき」には出来るようになっただけで
自分では満足?しています(^^)。
書き込んで下さって嬉しかったです。
どうぞまた、気の向いたときにいらして下さいね。
ありがとうございました。
随分とご無沙汰しましたが、以前、KTというネームでコメントしていた新潟の者です。因みに、ただいま仕事の関係で杉並区に在住です。では、かしこ。