眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

『野火』

2016-05-19 12:08:03 | 映画・本

長々と、しかも個人的な「ひとこと感想」その14。


家族も観にいったとのことで、「塚本晋也×野火」という本を貸してくれた。それを身近に置いて、表紙の写真が目に入る度に、私もこの映画のことを考えて過ごした。

映画を観ている間や、その直後に感じていたことは、私にとってはあまりに個人的な領域のことなので、書かないままになっている。(私はあの「戦争」に非常に影響を受けた両親を間近に、「戦争」というモノにある種のトラウマを抱えて?育った。そういう意味では、「全く戦争を知らない」世代にもかかわらず、「戦争」を過去のこととして、遠く離れた所から見ることはずっと出来ないままだったので、この映画の作り手が想定している観客とは少し違う立場にいると思う)

塚本監督がなぜこの映画を(多大な苦労も省みず)作ったかは、私にもわかる。今の時代の危うさ、雪崩を打って戦争へと転げ落ちていきそうな趨勢を日々感じているのは、一観客の私も同じだから。そして、私などがボンヤリしている間に、いつのまにか「(自分の生身に迫る「現実」としての)戦争は遠くなってしまった」ことに、時としてショックを感じるから。

私がまだ中高生だった頃、家にある雑誌(小説なども載っている月刊誌)などでは、「戦中戦後、どれほどの飢えを経験したか」は、ごくありふれた話題だった。この映画ほどではなくても、そのちょっと手前まで、ごく普通の子どもでも体験していたことが当たり前のように語られていた。(「火垂るの墓」がまさに生身の体験で、「だから今、食事を残すことが出来ない」「太ると分かっていても、勿体なくて全部食べてしまう(苦笑の気配)」などという会話が交わされるニュアンスを、私では上手く伝えられない)

「戦争」の体験が深刻であればあるほど、人は何も語ろうとせず、「そのまま墓まで持っていった」のだろうと、今の私は想像できる。「本当にあった事とは思えない」ほどの体験をした挙句、辛うじて(幸運に恵まれて)生き延びた人たちがいかに多かったかも・・・。

けれど、それを「知らない」「聞いたこともない」「知っていても実感がない(これは当たり前のこと)」人に、どうしたら伝えられるのだろう・・・原作の「野火」が「実感として感じ取れる」塚本監督は、焦燥感に駆られただろうと、私でさえ想像する。


以下は、映画自体について少しだけ。

今思い出す『野火』は、南国の緑、海辺の青空とのどかな砂浜・・・広々としたとても美しい風景として、私のアタマに浮かんでくる。この映画は元々、ひとりの作家の眼に映った「最期の旅」の風景なのだということ。それは人間たちの惨憺たる現実によっても、消えてはしまわない。そこに立ち昇る白い煙は「人間」の存在を示していて、それが敵か味方かによって現実は大きく左右されるのに、「人が居る」温かみのようなものを、どこかに微かに秘めているという意味では同じ・・・そんな風にさえ私には感じられるくらい。

俳優さんたちの演技力の問題ではなく、ただ「違う時代の人たち」であるために、戦後に作られた数々の「戦争映画」に感じるような緊迫感・迫力が望めないのは当然で、私としてはあくまで「作られたモノ」として観ていたし、そのお蔭で安心して?スクリーンを見ていることが出来た気もする。

それでも、突然降ってくる機銃掃射の物凄さ!や、強い日射しに焼けた石に血が飛ぶと一瞬で固まってしまう現象、食料をめぐっての騙し合いや裏切りの数々、はたまた高熱で花が語りかけてくる幻覚・・・私にとっては、ショックだったり、ある種リアルだったりするシーンがいくつもあった。


その後、大岡昇平の原作小説も家族から回ってきた。大岡昇平は高校生の頃大分読んだけれど、この「野火」だけは読まなかった(読みたくなかった)のを思い出して、「こういう巡り会わせで読むべき小説だったのかな・・・」などと思った。

原作と映画は、私には殆ど同じ印象を残した。塚本監督の映画が(元々は)ちょっと苦手な私にとっては、それも不思議な体験だった。


 

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