眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

遠い瞳と「言葉をつかむ」手 ・・・・・ 「舟越桂 展」(香美市立美術館)

2011-11-26 20:40:29 | 映画・本

 

先日観に行った「舟越桂 展」のチラシを、ずっと身近に置いたままにしている。舟越桂さんの作品を、ある程度まとまった数、一度に見たのは初めてだった。

元々は本の表紙でしか知らなかった。

「永遠の仔」、「悼む人」・・・書店で見かけると、つい手に取って、じっと表紙を見つめてしまう。それくらい、何か心にかかるものがある彫刻なのだけれど、好きかと聞かれたら、「どちらかというと苦手」と答えそうな気がした。

その頃の作品の「瞳」が私にはとても虚ろに見えて、その不安を掻き立てるような眼差しが苦手だったのだろうか。・・・自分でもよくわからない。

ただ、私は時々そういう「どちらかというと苦手」と答えるしかない、「好きか嫌いかよくワカラナイ」ものに出会う。そして、そういうものとは「好きなもの」より長いつきあいになることが多い。

その後たまたま、舟越さんが作品を作る過程を撮したドキュメンタリーを観る機会があった。『人間を彫る”彫刻家≒舟越桂』(2004)というその映画のお蔭で、私はあの独特の木彫がどういう経緯を経て生み出されるのかを知った。そもそも作り手がどういう人なのかも、それまでは全然知らなかった。


今回、香美市立美術館で観た中には、そのドキュメンタリーの中で制作過程をつぶさに見せてもらった「言葉をつかむ手」(2004)もあった。やはり中に出てきた、初めてのヌード作品という「妻の肖像」(1979-80)もあった。

以下は『人間を彫る”彫刻家≒舟越桂』に出てきた、インタビュアーとの会話から。(観たのが3年前なので、記憶を勝手に作っているのかもしれないけれど。)

「“妻の肖像”の後、なぜヌードの作品を作らなくなったんですか?」

舟越さんはちょっと言葉を探す風情で答える。

「彫刻というとすぐ女性のヌード・・・っていうのが嫌だったっていうのもあります。でも・・・要するに自分としては機が熟してなかったというか、作る気にならなかったんです。」

「それが、こうして制作されるようになったということは・・・?」

「自分なりに、今なら作れるかもしれないと思うようになった・・・ということでしょうね。今作ってるこれ(この時点ではまだタイトルは無かった)の一つ前に作った“水に映る月蝕"っていう作品で、造形にかかっていた縛りが一挙に解けたというか、形に関してとても自由になったので・・・。」

その「水に映る月蝕」も、今回展示されていた。「造形上とても自由になった」意味は一目で判った。丸々としたボディは、それまでの作品からは考えられないような「形」だった。両肩からは翼のように「手」が外側に向かって付けられていた。

舟越さんは言う。

「(胴体部分に後から取り付けられる)この“手”だって、誰の手なのかわかりません。誰かの手なのか自分の手なのか。」

「そういう“手”とかいったアイディアはどこから出てくるんですか?」

「突然出てくるんです。どこから湧いてくるのか自分でも判りません。」


「造形上とても自由になった」舟越さんがその後作った「遠い手のスフィンクス」(2006)も展示されていた。両性具有を感じさせるその彫像は、作り手の中から湧いてくるエネルギーの大きさを顕示しているようで、人間世界の戦争(暴力)を見つめる「スフィンクス」は、それまでの作品が纏っていた「静謐」や「思索」、「美」や「幻想」からはほど遠い「怒り」と「力」を感じさせた。

自分でも何が書きたいのかわからない。

美術館といっても一部屋だけの小規模なもので、平日の昼間、観に来る人もポツリポツリ。展示された10点ほどの彫刻と20枚ほどのドローイング、それにごく初期の1枚の油絵を、好きなように遠くから近くから眺めた。(警備の男性はハラハラしておられたかもしれない・・・というのは、後から気づいた。)

彫刻の顔が自分より少し高い、それでもまさに「目の前」にある。楠に彩色された顔と身体。はめ込まれた大理石の青い瞳は、よく言われるように「どこか遠いところ」を見ている。

短い、あるいはとても長い、非常に凝ったタイトルがつけられている。

映画の中でも、タイトルは作品が出来上がってから、ゆっくり時間をかけて考えるのだと言われていたと思う。一つ一つ、タイトルを確かめながら作品を観ていると、「舟越桂」という人の長い長い旅を、自分も追体験しているような気持ちになる。


女性像はとても美しい。ドローイングは彫刻以上に、「誰が見ても美しい」女性として描かれているように見える。そういう美しさを懼れない、避けようとしない人なんだな・・・と、ふと思った。そういう自由さも、何十年かの制作を経てこの人は手に入れたんだな・・・と。

映画の中で舟越さんが言われた言葉を思い出す。

「次に作りたいものは、今完成した作品の中に見えるというか、自分の中から出てきます。外からの刺激というのもありますけど、次に繋がるものが(今完成した)作品の中に見つけられなくなったら、この仕事は出来なくなるかもしれません。」


初期の堅苦しいくらいきちんとした(まるで洋裁の人体のような?)半身像も、その瞳も、なぜかもう「虚ろ」には見えない。

その頃のある種不自由な作り手の状況・心象風景から生み出された作品も、内に秘めている混沌?や、それとは真逆の知的な静謐(まさに「積んである読みかけの本」のような)が瞳に見える。それぞれの彫像の息遣いがこちらに届いてくる。彼らがそこに生きている・・・と感じる。その瞳が見ているものを、私も見つめているような気がする。


その昔中学生の頃、彫刻家でもある美術の先生が授業中、「彫刻は360度、全方向から見るものです。ほんとは手で触ってもいいくらいなんだけど、美術館なんかだと触れないことが多いのが残念ですね。」と言われたのを思い出した。

私は360度、全方向から見た揚句、「息吹を顔に感じる」ほど間近で、彼らをじっと見つめた。先生の言われた意味が、今頃になってようやく少しだけ解った気がした。

小さな美術館を一歩出ると、来るときと同じ秋晴れの空が待っていた。

ほんの1時間建物の中に居ただけなのに、自分が「どこかから突然現れた人物」のような気がした。

ぼんやりしたまま歩いていたら帰りのJRに間に合わず、駅のベンチで1時間ほど待った。家に着く頃になってようやく、普段の私が戻ってきた。

幸せな時空旅行をしたと思った。




 


『人間を彫る”彫刻家≒舟越桂』 (2008年マイ・ベストテンに選出)
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/64da7793611efaad1108375ab7e89e3d

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4 コメント

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Unknown (TAO)
2011-11-26 20:56:17
素敵な体験でしたねえ。
私の場合は、船越桂は初めから親和性を感じて、他人という気がしません。不遜ながら同じ生地で出来ている、とでもいうか、自分の中にあるものをより純化したかたちのように感じていました。

「どちらかというと苦手」なのに気になってその後長いつきあいになるものってたしかにありますね。恋愛もそうですが(笑)。
初めから親和力の高いものより、一段と深い部分で感応しているんだなと、後になって思います。
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確かに・・・ (ムーマ)
2011-11-26 23:01:17
>不遜ながら同じ生地で出来ている、とでもいうか、自分の中にあるものをより純化したかたちのように感じていました。

(私なんかが言うのもナンですが)TAOさん(の書かれるものから私の中で出来ているイメージ)と舟越さん(の作品から私が受け取る何か)は「同じ生地から出来ている」と言われると納得するものがありますね。
とてもデリケートで、しかも(それなのに、かな?)「光」や「美しさ」を当然のように真正面から見つめる視線が似てる・・・というか。

美術展で自分一人きり・・・というのは、大変な贅沢だといつも思います。(金沢や高知ではたまにそういうことがあります。)
しかも作品との間に何も隔てるもの(ガラスとか)が無いなんて・・・ほんとに幸福な時間でした。
私はそういう「時空旅行」をしている時だけは、「ここにいるのは紛れもない自分自身」と感じることが出来るので、大変貴重な時間でもあります。
でも、その分地上に帰ってくるのに、少し時間がかかるようです(笑)。
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お久しぶりでした (K.T)
2011-12-26 19:18:15
お久しぶりでした。
私も船越ファンです(^^)。手が肩の後方から生えている例の作品みてみたいなァー。テレビで、船越さんのアトリエ訪問があったんですが、興味深かったなァ(^_^)
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レス遅くなってごめんなさい。 (ムーマ)
2012-01-02 01:10:09
>K.Tさ~ん

お元気でしたか~?

K.Tさんも舟越さんのファンなんだ・・・。
ほんといいですよね~。見てると時間がたつのを忘れるくらい。
アトリエ訪問がテレビであったんですか。知らなかった~。
ご覧になったK.Tさんが羨ましいです。
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