(この記事は、映画のストーリーの細部に直接触れています。未見の方はどうぞご注意下さい。)
とても美しいアニメーション。観ている間「見ることの幸せ」を堪能させてもらった・・・と、つくづく思う。
原作マンガ(作者・杉浦日向子は江戸風俗研究家とか)のことを私は全然知らなかったけれど、映画が始まった最初から、「時代考証が正確になされている」ことを、素人ながらに「眼」で感じた。
物語を少し説明すると・・・(チラシからのテキトーな引用プラス・アルファ)
主人公お栄は23歳。あの「葛飾北斎」(鉄蔵)の娘で、父であり師匠でもある鉄蔵と共に、長屋で絵を描いて暮らしている。「掃除も炊事もしない。家が汚れたら引っ越せば良い」と本人が口にするほど、絵を描くこと最優先な生活。父の代筆を頼まれ、枕絵まで描いたりするお栄だが、居候の絵師・善次郎(お栄曰く「下手善」)や、ライバル門下ながら北斎を崇敬する歌川国直とあれこれ騒いだり、なぜか居ついた子犬と寝転んだり、離れて暮らす母親や、寺に預けられている盲目の妹・お猶を尋ねたり・・・と、自分なりに人生を謳歌している。
そんな北斎・お栄親子を中心に、江戸の町の片隅で繰り広げられる「絵」にまつわるさまざまな出来事・・・「妖怪騒ぎ」「火事見物」そして「吉原」などなど・・・が、素晴らしいアニメーション映像で繰り広げられる。
私はこの映画を観ながら、アニメーションというものの持つ力、その有能さ?(妙な言い方だけど)に感嘆した。
先日観た『イミテーション・ゲーム』では、「膨大な数量を短時間に扱う」ことこそ、「機械」の得意とするところ・・・と思って見ていたら、ほんとにコンピューターの第一号?が出現して驚いた。(私の無知がなせる業だけれど。) 同じように、この『百日紅』を見ていて、盲目の妹が登場したとき、「ああ・・・眼の見えない人が見えるモノ(お栄は、妹には金魚が見えると母親に言う)を描き出すには、アニメーションは最適かも・・・」と、思ったのだ。
アニメーションは、存在しない(とされている)ものや、実物を誰も見たことが無いものを、映像化することに向いていると思う。「妖怪」や江戸の町並みを描くことは、最も得意なことの一つだろう。
でも、アニメーションはもう一つ、「感覚(五感)」のそれぞれが交差したり重なったりする部分を、映像(視覚)と音響(聴覚)で現出させることも上手い。それは単に二次元のスクリーンに映し出されるだけなのに、ある種の体感(触覚)を、見るものに与えることさえ出来る。(この『百日紅』と同じ作り手による『河童のクゥと夏休み』の中で、クゥが遠野の川に飛び込んで自由に泳ぐシーンを見たとき、私は自分も「水」の中を飛んでいく?ような気がした。クゥの感じている「水」の触感を、私も同じように感じたのだ。)
「絵師」というのは「見る」ことが基本だと、素人の私でも思う。このアニメーションにあふれている「見ることの幸せ」は、作り手たちの「見る」「見える」の上に成り立っているのだろうな・・・と、今回改めて思った。
鉄蔵やお栄は、存在しないとされているものも「見えてしまう」人たちだったけれど、現代の「絵師さん」(と若い友人はイラストレーターやアニメーターのことを呼ぶ)たちが、想像力の翼を広げて「見ようとする」ものを、「見えない」私も見せてもらった・・・そんな気がした。
と、ここまで随分大仰な書き方をしてしまった。
ほんと言うと、私にとってこの『百日紅』で一番心に残ったのは、主人公のお栄という若い女性の個性だったと思う。
掃除や炊事より「絵」が大事。「親子ふたり、箸が四本、筆が二本あれば、どこに行ったって食べていける」と言い放ち、どんな絵でも自分は描ける、見れば(体験すれば)必ず描けるようになる筈・・・と信じて疑わない。(好きなこと、打ち込めることで経済的な自立をはかる彼女は、当時としてはかなり珍しい女性だと思う。たとえそれが、父親の「家業」の手伝いだとしても。)
絵を描く以外の時間は、一人暮らしの母親には「弁当買って」会いにいき、妹は寺から連れ出して、本人が行きたいという場所へ連れていく。(その方が、掃除なんかをするよりずっと、時間の使い方として正しいと私も思う。)
一方、好きな人の前ではロクにものも言えず、相手がいそう(相手かどうかもわからないのに)と思うと、さっさと諦めてしまう?くらい、恋愛には不器用・・・。当時の23歳といえば、結構な年増の筈なのに。
などなど、見ていて現代にも通じる普遍性のある人物設定なのだけれど、私にとって特に印象的だったのは、彼女の人間としての優しさだった。
妹が他の子どもと遊んでいて、雪の中で転んでも、すぐに駆け寄ったりしない。暫し待って、次にどうなるか・・・を見定めてから反応する。 自分からはあまり喋らず、妹の話すことを聞いている。(若い友人は、「兄と妹みたいだ」と言って笑った。)
終盤、実家で妹とふたり、蚊帳を釣って一緒に寝る場面。
妹は突然、「蚊帳の上に何かいる」。
真剣に何度も言う妹のために、お栄が蚊帳から出て上を覗いてみると・・・蚊帳の上にいたのは、一匹の蟷螂だった。お栄は捕まえて庭に放し、また蚊帳に入って横になる。
眼を閉じているお栄に、妹が尋ねる。
「どうだった?」
「何でもない。虫だよ。庭に放したから大丈夫」
「きれいな虫?」
「きれいだよ。ほっそりして、冷たくて。サヤエンドウみたいだ」
「やさしい虫?」
「やさしいよ」
「かわいい?」
「かわいいよ」
妹は聞くのをやめて、いつものようにつぶやく。
「死んだら(自分は)地獄に行くね。(眼が見えなくて、体も弱くて)親に孝行もできないから」
お栄は、強い調子で答える。
「そんなことねぇよ!」
病気になって、寺から家に帰された妹との会話だ。
事あるごとに、自分は死んだら地獄へ行って、賽の河原で石を積むのだ・・・などと口にする妹は、寺にいる間に、そういった知識を授けられたのだろう。 お栄はこの幸薄い妹に、「美しいもの」「優しいもの」だけを見せたかったのではないか・・・と私は思う。
蚊帳の上で対面した蟷螂は、決してきれいでも可愛くもないように見えたけれど、もしかしたらお栄は「虫愛ずる姫君」だったのだろうか。でも、たとえそうでも、私は彼女の優しさが胸にしみた・・・。
他の登場人物たちも、それぞれ弱みや欠点、悩みを抱え、それでもささやかな取り柄もあったりして、そんな小粒?な庶民たちが、江戸の四季を背景に右往左往?する物語を見ていたら、アニメーションってほんとにいいなあ・・・と、もうシミジミしてしまった。
最初から、外国で見てもらうことを想定して作られた作品・・・と見受けられたけれど、サムライでもチャンバラでもハラキリでもない、四角四面に主従だの義理だの道徳などで、追い詰めたり追い詰められたりしない、自由闊達な絵描きさんたちの日常を、海の向こうの人たちにも見てもらいたい・・・本気でそう思った。
漫画(原作)は買ったけど、まだ読んでいません。活字が小さいので読み始めるためにエネルギーが必要みたいです。
早く読みたいのだけど。d(⌒ー⌒)!
アニメーションの方は、ヒロインが原作漫画より
「美女化」されてるという噂ですが・・・
エネルギー溜めて、漫画読まれたら
感想聞かせて下さいね。
今、枕元に積み上げてる本(漫画も)が消化できたら
私も原作を読もうかな~なんて思っています。
「ありがとう♪」なんて言って下さって・・・
なんか(ヨクワカラナイけど)嬉しいです(^^)。
来てくださって、読んでくださって
書き込んでくださって、ほんとにありがとうございました。