moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

物語性において、時間を切り取って見せるということは・・・

2006-08-06 | エッセー(雑文)
物語性において、時間を切り取って見せるということは、
時間のズレを感じさせ、それは意味のズレの源であり、
分岐していく流れを垣間見る拠点を獲るということになる。
そして、自分さらに人の行為を反省的に捉えなおすキッカケを
つかめるのであり、歴史というコンセプトを生み出し、
個人は孤立から自由になりうる機会をつかめるのである。
個人の命は50年~100年という限りがあるが、
しかし、「時間を切り取って見る」という行為がある限り、
その命に限りはなく、一種の対話が続くのである。

映画や音楽は「時間を切り取って見せる」最たるものであり、
ときにそれは、過激に過剰に強制的にと、権力に利用されるが、
その権力でさえ、「時」によって意味を成しえているのであり、
ある意味ロゴス性にそわざるを得なく、無理強いは己を滅ぼす意味を
連ねるのである。
我々の普段のなにげない会話にも、時間を切り取り、
互いに了解しながら、意味を共有しているわけだが、
だからといって、数学的に=として進行しているわけではない。
意味は発生するかのように見えるが、本来は変化に過ぎなく、
その変化が、流れの勢いからいくつもの支流に、分岐していく時、
ズレを感じるのではないだろうか?
小説や哲学論文であろうと、その構図に変わりはなく、
漫画のような絵を連ねるものでは、
そのデザインの意味や「時間の切り取り方」が
容易に再見しやすいので、さらに共有しやすくなる。
これが、さらに複雑な構成を要する映画になると、
不可逆性がともない、一種の制作者側の呪縛にからめとられ、
「時間の切り取り方」は分散して受け取られていくのである。
観客の趣向によって、大きく感想が変化するのも
再見に時間を要するためであり、その「時間の切り取り方」の
見せ方は早すぎて、意味が浮かんでも気づかず、
通り過ぎることもあるからである。
「時間の切り取り方」というデザインを意識することが
これからの、社会人にもっとも必要なセンスになるだろうし、
それによって、鬱傾向の社会現象も下火になるのではないだろうか?