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▲シーボルト事件と仕事人

▼文化・文政時代の仕置人、仕事人・その弐~シーボルト事件と仕事人~(『必殺スペシャル・春「勢ぞろい仕事人!」春雨じゃ、悪人退治』)
1819年、中村主水が外国人を救ったことでオランダ商館から表彰された(『必殺仕事人Ⅴ旋風編』)。
1820年ごろが舞台の『裏か表か』では主水の仲間は『仕事人Ⅴ激闘編』の鍛冶屋の政、組紐屋の竜、加代、壱、参に『仕事人Ⅳ』の秀も加わっている。組紐屋の竜は殉職しているが、同名の仕事人が46年後の幕末に出現しており、同名の息子か孫であろう。主水の仲間が次々と死んだが、政と秀、加代は生き残った。
この年、主水が書庫番に移ったのはすでに書いたとおり。
1823年、シーボルト来日。
1824年、シーボルトは鳴滝塾を開いた。高野長英、小関三英、渡辺崋山は蛮社の獄の被害者で、長英はのちに「新からくり人」一座に参加。長英の弟子だった糸井貢はシーボルトの孫弟子にあたり、「仕留人」として主水と組んでいる。

一方、『ドラえもん』でもこの時代の史料があり、文政9年元日、つまり1826年の初め、陰暦の元日だから陽暦で1月終わり~2月ごろ、のび太の先祖で、農家の大地主(ただし、質素な生活)だったのび左エ門が金を壺に入れて埋め、巻物にその在処(ありか)を書き残した。しかし、これはのび左エ門から息子・のび作へのお年玉で、たいした金額ではなかった(「のび左エ門の秘宝」)。

シーボルトのむすめと渡し人・鳴滝忍
1826年、シーボルトは江戸に渡った。
1827年、楠本イネ誕生(1903年没)。『必殺渡し人』の女医・鳴滝忍はこのイネと似た境遇の女医だが、同一人物か、それとも別人かは、決め手はない。鳴滝忍の父親はオランダ人で、シーボルトはドイツ人という違いがある。
だが、シーボルトがオランダ人のふりをしていた可能性もある。
1827年、ジョン万次郎誕生。あの西郷隆盛もこの1827年に誕生(1877年没)。ただ、暦の関係で、史料によって生年は1827年だったり1828年だったりする。
1828年、大黒屋光太夫没。万次郎も光太夫も不本意ながら異国に漂着し、鎖国の日本に帰国し、「異国から帰ったら死罪」との法が適用されずに、生き延びた。

シーボルト事件の真相
 シーボルト事件については間宮林蔵(1775または1780~1844)が密告したという説がある。
『春雨じゃ、悪人退治』の冒頭の説明で瀧澤馬琴(→滝沢~、曲亭馬琴、1767~1848)の日記の記録が紹介され、それによると、文政11年(西暦1828年)3月6日、この日の江戸は晴れ。当時の暦の3月は今の4月初めになり、上野の山には夜桜見物の客で賑わったらしい。奉行所の金を使い込んだ同心らしい武士が逮捕されていた。米相場が流行で、何でも屋の加代と中村せん、りつは米相場に夢中だったらしい。

「八丁堀の七不思議」の一つとして女湯の脱衣所の刀掛けがあり、同心は混雑を避けて女湯に入ることを許されていた。女性が一人、湯船につかっていたとき、主水と筆頭同心・田中も入浴。このとき、男女が多数混ざった伊勢神宮への抜け参りの集団が風呂屋に乱入。入っていた女性は一貫して落ち着いていた。なまはげが女湯に入って犯罪になる現代から見ると、隔世の感がある。この騒ぎで主水は十手を盗まれた。元禄時代に水戸光圀主從も旅先で入浴中に印籠などを盗まれたことがあり、荷物番を置くべきであった。主水は芝居の小道具でごまかしていたが、奉行所でばれてしまい、自宅謹慎処分となる。この決定があった日、雨が降ったらしい。実は、主水の上司・田中も十手を紛失したことがあり、これはドブさらいをしていた町人が見つけた。細かい時代は不明。

話を戻すと、闇の会でシーボルトを殺す依頼が持ち上がり、加代の知り合いの鶴が受けて長崎に渡った。しかし、長崎ではほかにもシーボルトの命を狙う刺客が現れ、鶴が排除した。闇の会のシステムには謎が多い。米相場で乱高下が激しく、米を運ぶ船も似たような集団に襲われ、川(推測)で沈没。この集団は伊勢屋の手下の暗殺団らしい。
江戸で大坂(=大阪)の占い師コンビ(夫婦らしい)が開業しており、加代がその年の天気を訊ねたが無理で、下駄で占っていた。昨今、占いや占い師がテレビでよく出るが、霊視で人気のカウンセラーも天気や国際情勢は予測できないだろう。
ある日の夜、主水は千葉周作、葛飾北斎、瀧澤馬琴とともに、高橋景保の浅草天文台に呼ばれた。北斎が「富嶽百景」に描いた有名な天文台である。景保は主水に太陽中心説(地動説)を説明していた。

当時、景保のむすめ・弓栄(ゆみえ)は国学者・室田静軒と交際中で、景保の一番弟子・亀山も室田静軒と繋がっていた。
室田にもたらされた情報では、『オランダ王国の海外領土全図』、『世界周航記』(漢字表記は台詞から推測)がシーボルトから景保に贈られ、景保が例品を準備。シーボルトが日本で国外持ち出し禁止の伊能忠敬(1745~1818)の大日本沿海輿地図」をほしがっていることも判明し、景保自身はその地図を贈るつもりはなかったらしい。
そのとき、米問屋・伊勢屋は米相場を操るため、高橋景保に嘘の長期予報を出すよう圧力をかけるが、景保が拒否。
伊勢屋はシーボルトを敵視する室田静軒らと組んで景保抹殺を画策。亀山に命じ、シーボルトへの贈り物に地図を入れ、主水の十手も贈られ、鶴が長崎で發見。シーボルトの帰国の際、海中で例の暗殺団がシーボルトの船に工作し、船は難破して、鶴の受けた仕事は未遂に終わった。

千葉周作も仕事人
1829年、高橋景保が獄死。景保のむすめ・弓栄も殺された。主水は、景保の弟で鰻屋の市兵衛(仕事人)、加代、はぐれ仕事人2名(加代の知り合い)、千葉周作と組んで、伊勢屋、室田らを仕留め、高橋景保の仇を討った。鶴も途中で仕事に参加。十手は主水の手に戻った。
伊勢屋から米(肥後米らしい)が多量に見つかり、値段は下落。相場に手を出していた加代も中村せん、りつも大損。主水のへそくりも取られた。
米相場熱はのちの株の投資ブームに似ているが、それがこのように、犯罪や偽装の多い社会を生む。

この年、1829年に松平定信が亡くなっている。光太夫の没年の翌年とは、何とも奇遇である。

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2008年2/28(文化・文政時代の仕置人・その壱、仕事人~アヘン戦争、天保の改革)

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