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▲徳川綱吉の時代、綱吉から吉宗へ(『水戸黄門』、『忠臣蔵』、『ガリヴァー旅行記』)


犬公方・綱吉の時代の幕府は光圀一人に何度も頼る極端な人材不足
5代綱吉(1646生~1680着任~1709没)になると、『水戸黄門(みとくわうもん)』と『忠臣蔵』の時代で、記録の宝庫である。それゆえ、歴史観がバラバラで真相がわかりづらくなっているが、それこそ、「歴史認識」というものの何たるかを教えている。
2代目水戸藩主・徳川光圀(1628~1700)は西山荘に隠居してから没するまでの10年間、たびたび、徒歩で全国行脚をしていた模様。『トリビアの泉』などで紹介された「史実」では「光圀の最大の遠征先は鎌倉」で、移動には馬や駕篭を使ったようだ。ここでは漫遊記を歴史として考える。

光圀一行のモデルは『西遊記』か
光圀は佐々木助三郎、渥美格之進を連れていたが、元窃盗犯で忍者の弥七とその子分・八兵衛も連れていた。助三郎のモデルは佐々宗淳(さっさむねあつ、または介三郎)で、渥美格之進のモデルは安積澹泊(あさか たんぱく)らしい。弥七のモデルは「松之草村小八兵衛」だという情報が電脳網にあるが、忍者のことだから真偽不明。のちに柘植(つげ)の飛猿とかげろうお銀も参加した。これで光圀一行は『西遊記』で描かれた玄奘取経の旅の一行とそっくりになった。

●玄奘三蔵(『西遊記』)・・徳川光圀(『水戸黄門』)→リーダー
●孫悟空(『西遊記』)・・弥七、飛猿、鬼若、お銀またはお娟(『水戸黄門』)→アウトローだが強い助っ人
●猪八戒(『西遊記』)・・八兵衛、千太、新助(『水戸黄門』)→庶民派(但し、八戒は人間や妖怪の雑兵を倒すくらいに強い)
●沙悟浄(『西遊記』)・・助三郎、格之進(『水戸黄門』)→忠実で真面目な部下

違うのは『水戸黄門』で白馬がいないくらいか。忍者を飛猿と呼ぶのは白土三平の歴史漫画にもあったと想う。孫悟空の別名は猴行者だからよく似ている。中国人が飛猿、八兵衛がいたころの『水戸黄門』を見たら『西遊記』の真似だと想うだろう。
弥七は江戸で妻・霞のお新とそば屋を経営していたらしいが、年中、諸国漫遊に同行して、最初は妻も同伴だったから、そば屋はよく休業になっただろう。なかなか、常連客(リピーター)もできなかったのではないか。のちにお銀がメンバー入りしてから、お新は江戸で留守番になったのだろう。

「副将軍」とは何か
隠居の期間、光圀は「先の副将軍」または「先の中納言」と呼ばれていた。光圀が漫遊していたとき、光圀はすでに副将軍でなかったわけだ。
ここで、「副将軍」とは何かが問題になる。こういう肩書きが出てくるのは『水戸黄門』だけである。将軍の代理、代行であれば、同時代の柳澤吉保や、のちの新井白石、大岡忠光(忠相ではない)、田沼意次、松平定信、水野忠邦、井伊直弼など、「副将軍」を名乗って不思議はなかった。
また、光圀は日本各地で問題が起きるたびに、綱吉の許可を得て諸国漫遊をしていた。これは当時の江戸幕府の慢性的な人材不足を示している。光圀の漫遊は21世紀初頭における山崎拓前總裁の北朝鮮訪問のようなものだ。どんな権限があるのか、わかったものではない。

しかも、名前も身分も最初からわかっている自民党政権と異なり、徳川光圀は偽名を名乗り、手形(旅券)を偽造し、身分を偽り、本人または從者による博打や泥棒、城への不法侵入、暴力事件も起こしているのだから、光圀のやり方のほうが問題である。また、光圀一行は各地で不正を正すと、その場を離れ、別の地方に移ってしまう。光圀主從が関東に帰ってしばらくすると、また、日本各地で同様の問題が起こり、また、光圀が派遣されることになる。こんなことが何度も続いていて、家来たちは水戸や江戸に落ち着いていられない。そして、この作品では、日本各地での過去の漫遊に関する後日談やその後の効果が何も語られていない。

何度やっても効果のない対症療法
つまり、同じ人物が何度、全国を視察してまわっても、一向に効果がなく、その場しのぎの対処両方の繰り返しで、それぞれの地域に根ざした改革になっていないのである。

これに関しては2007年4月号の『中央公論』で片山善博氏(当時、鳥取県知事)が『「改革派知事」待望は水戸黄門幻想だ』という指摘をしており、103ページで『水戸黄門』を引き合いに出して、批判している。

Google「中央公論 水戸黄門 幻想」
分権自治の根源は議会にある「改革派知事」待望は水戸黄門幻想だ=片山善博 [中央公論]

漫遊は非公式だから水戸藩や幕府の財政がどれだけかかるか、わかったものではない。今の日本では道路特定財源など、税金の目的と使い道に対し、輿論が厳しくなっている。水戸光圀や遠山金四郎の「遊び」の金のもとは年貢であろう。庶民は怒らないのか。
しかも、これは、中央から一々、使者を派遣しないと、各地の民意が上に届かないことを示し、地方自治が破綻している。
いい加減、将軍綱吉も、水戸の隠居一人に頼ることはやめて、幕府から適当な数の人材を各藩に派遣し、常駐させ、定期的に江戸と往復させて、根本的な解決策を考えたらどうか。長期的に見れば、そのほうが財政的には節約になるし、効果もわかりやすいはずだ。
TBSナショナル劇場の『水戸黄門』第38部第5話によると、若き日の徳川吉宗(1684~1751)が「源六」と名乗っていたとき、紀州にやってきた光圀と対面していたらしい。光圀(1628~1700)が隠居だったのが1690年から1700年までとすると、数え年で光圀63歳から73歳まで。吉宗は7歳から17歳まで。
のちの吉宗の市中徘徊癖は、若いときに光圀によって吉宗に植え込まれたか、強化されたものかも知れない。
「徳川吉宗と大岡忠相、平賀源内」

光圀が没した直後、松の廊下の刃傷事件が起きた。忠臣蔵事件のときに光圀が生きていたら遺恨も何とか収まっただろうが、いつまでも光圀一人に頼る江戸幕府は慢性の人材不足だったと言える。
光圀の死後、日本では将軍や将軍家の親戚、藩主、奉行が偽名を名乗って市内を探索し、それで初めて事件が解決するのが慣例となってしまい、非公式の手段に大衆が酔う風土が定着した。

1699年5月4日、ガリヴァー(Gulliver)の乗った船が東インド地方を目指してブリストル(Bristol)を出航、難破して小人の国(Lilliput)に漂着した。

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2008年2/25 [1] [2](投稿順)

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綱吉 水戸黄門幻想 元禄 赤穗
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