《私たちにわかったことは、
「自分が何を言うか、何をするかが私ではなく、
私はただ私である」ということだ。
自分が誰かは魂が決めることだ。
認知と感情は人生で変化するが、
私たちの本質である魂の神の手の内にある》
とクリスティーンさんは書いておられます。
『私は私になっていく』(クリエイツかもがわ)P220
この文章は、簡単なようでむつかしい。
私たち日本人には理解しにくい。
神というキリスト教の上に
成り立つ言葉だからでしょう。
私が毎朝読む「正信偈」と
その後に読む蓮如さんの
「白骨に御文」の中には、
「朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり」
と書かれています。
朝、元気で出かけた方が、
夕べには白骨となる無情。
毎朝、
その「御文」を読んでいますと
何故か心が穏やかになります。
なにがどうだ・・・と
いう理屈ではありません。
ただ、
「これでよし」・・・
と頷けるのです。
死は・・・いつもそこにある・・・と
いうことになんとなく頷くのです。
クリスティーンさんの思いとは少し違うと思いますが、
これが、
私の今の心境です。
決して大げさなものではありません。
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特に、精神的な別れでしょうか。
父は、若い頃から、命を見つめてきた人でした。
息子の死後、「般若心経」や道元の本を買って学んでいたことが、死後わかりました。
晩年は「死」を強く意識していました。
1年ちょっとの介護でした。
母との多重介護になったため、家庭で看取ることはできませんでしたが、「思いやりと感謝の心」を持った本来の父のまま、旅だってくれ、娘を救ってくれました。
母についても、私は「死」をおそれてはいません。
いつかは必ずくることです。
ただただ、天命をまっとうしてもらえるよう精神的に支えていくのみです。
水木様と、なんとなくうまが合うのは、仏縁かもしれませんね。
環境が、私たちを救うかもしれません。
仏縁もご縁の内です。
こうして書けることもご縁ですね。
いつも励まされて、
今の私があります。
ありがたい・・・と思っています。
13日間、
「もの忘れネットカフェ」を
見守っていだいたご縁に感謝。感謝です。