《禅仏教が指摘するには、心とは、
サルがキーキー鳴きながら不安という枝から
貪欲という枝に移り渡っていくようなものだ、という。
心がそんな状態だとしたら、
どれだけ質の高い経験ができるだろうか?
瞑想では静かな山水に月が映るかのように、
心を鎮めることを教える。
その心がそのような状態になれば、
今という時を思う存分に味わうことが出来るのだという。
これは面白い考え方だ、と僕は思った。》
とクリスティーンさんは書いておられます。
『私は私になっていく』(クリエイツかもがわ)P217
この言葉は、クリスティーンさんと同じ病の仲間である
モリスさんが書かれた文章の一部を、
《私は私になっていく》の中で引用したもの。
先に書いた「刹那」の続きです。
外国の方が、禅仏教に心を留め、
しばし・・・自分を振り返る・・・
その方の感性との出会いで・・・
心に留まるということしょう。
禅のいう平常心・・・という言葉が
とてもすばらしい言葉に聞こえ、
そこで立ち止まる・・・
そして・・・
ふーっと大きなため息を吐く。
そんな時間が持てれば・・・以外な形で、
元気をいただくことができるのかも知れません。
サルが貪欲の枝から・・・
そうでない枝に移って・・・キキキ・・・と、
うれしい声を発するようにです。
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感性と感性が出会う。
国籍なんかこえてしまいますね。
禅の瞑想に心を留められ、
「鎮まった心で今を思う存分味わう」
という境地に達せられたんですね。
モリスさんの深さ、
クリスティーンさんの深さ、
水木様の深さ、
人間の精神のありようは
この病になっても損なわれない。
大切なのは、
この病になるまでの、
この病になってからの、
「生き方」ですよね。
人間いかに生きるか。
大きな「命題」ですね。
アメリカ人、
オーストラリア人が・・・
禅の気持ちを理解され、
「この病」と向き合う。
そこまでにいたる紆余曲折。
そういう言葉に出会えた・・・という奇跡。
まったくのご縁です。
書くこと、読むこと・・・で、
私は私になっていくいのかな?