雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

間もなく就任式

2021-01-20 19:52:19 | 日々これ好日

      『 間もなく就任式 』

   バイデン新大統領の就任式が 間もなく始まる
   異例ずくめの政権交代だが なんとか こぎつけた感じ
   他国のこととはいえ 
   わが国ばかりでなく 全世界にとって 大きな変化をもたらしそうだ
   世界が一つになれるわけではないが
   やはり 多くの国が米国の調整力を 必要としているはずだ
   新大統領に 期待したい

                    ☆☆☆
   

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形見の水は

2021-01-20 07:56:09 | 新古今和歌集を楽しむ

     絶えぬるか 影だに見えば 問ふべきを
               形見の水は 水草ゐにけり

               作者  右大将道綱母

( No.1239  巻十四 恋歌四 )
         たえぬるか かげだにみえば とふべきを
                   かたみのみずは みずくさゐにけり

* 作者は、平安時代中期の歌人。「蜻蛉日記」の作者として著名。( 936 ? - 995 ) 行年は六十歳くらいか。 

* 歌意は、「 二人の仲は絶えてしまったのでしょうか 影だけでも映って見えるならば お訪ねできますが 形見の水には 水草が生えてしまいましたよ 」といった、なんとも恨みがましい和歌のようだ。
この和歌の前書き ( 詞書 ) には、「 入道摂政 ( 夫の藤原兼家 ) 久しくまうで来ざりけるころ、鬢(ビン)かきて出で侍りけるゆするつきの、水入れながら侍りけるを見て 」とあるので、仲が疎遠になっていることがうかがえる。なお、「ゆするつき」は、髪をすく水を入れる器のこと。

* 作者の父・藤原倫寧 ( フジワラノトモヤス ・[ ? - 977 ] ) は、藤原北家長良流の家柄で伊勢守など幾つもの守護を務め正四位下まで昇った中流貴族である。
954 年、作者十九歳の頃に藤原兼家 ( 929 - 990 ) と結ばれたが、兼家はいわゆる摂関家の出自であり、強く望まれての結婚であったらしい。作者は、「尊卑分脈」に「本朝第一美人三人内也」とある。さらに、他の二人というのが、光明皇后 ( 聖武天皇の皇后 ) と染殿后 ( 文徳天皇の女御で、清和天皇の母。) とされるので、その地位を考え合わせると相当の美人であったらしい。もっとも、「尊卑分脈」の内容の正確性や、選定の根拠は示されていないので、鵜呑みにはできないが、容姿端麗であったことは確かなのであろう。

* 結婚翌年には、道綱が誕生した。道綱は、兼家の次男に当たるが、正室時姫の出自である道隆・道兼・道長らに比べると、その昇進は大幅に遅かったが、寛和二年に花山天皇を出家・退位に追い込んだ寛和の変では、長兄である道隆と共に働き、一条天皇の即位・父兼家の摂政就任に貢献し、短期間の内に正五位から従三位にまで昇進して公卿の仲間入りをしている。
後に朝廷政治の頂点に立つ道長とは、一時は協力関係にあったようであるが、やがて疎遠になったようだ。道長との勢力争いという一面もあったかもしれないが、道綱自身やや凡庸な人物であったらしい。

* 作者・道綱の母は、「蜻蛉日記」の作者として、文学史上名高い。この日記は、結婚直後の954年から974年の年末に至る長大なものであり、夫兼家との生活、正室時姫はじめ夫の他の妻妾のことなどが記されているが、最終の974年は、作者が三十九歳の頃で、この後二十年
あまりの生活については、その消息は少ない。
二十年にわたり書き続けてきた日記を打ち切ったのには、何か特別な理由があったのか、もしかすると、別途書き続けていた日記があるのに今日に伝えられていないだけなのか、などと勝手に想像してしまうのである。

* 掲題の和歌は、作者の代表歌というわけではなく、勅撰和歌集に採録されているものだけでも三十六首に及ぶ。また、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙にも選ばれており、蜻蛉日記の作者とされることが多いが、歌人としても一流の女性なのである。
最後に、小倉百人一首に選ばれている和歌を紹介
させていただく。

『 嘆きつつ ひとり寝(ヌ)る
夜の あくる間に いかに久しき ものとかは知る 』

     ☆   ☆   ☆

 

 

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