田熊みうま会 尾道市因島から発信中

昭和40年度生まれで 田熊小学校・田熊中学校に通った人のブログ

平成9年同窓会・厄払い記念集合写真(訪問者20万人突破記念)

2020年03月15日 | 令和2年因島・田熊・仲間の話題
当ブログを2014年8月に開設して以来20万人の訪問を賜りました。これまでのご訪問、コメントありがとうございます。
今回は平成9年(1997年)に厄払いした時の集合写真。会の名称は"田熊みうま会"の前身"40会"です。三十三は女の厄年なのでお宮では女性陣は前列になってもらいました。管理人は服装とかの流行にまるで無頓着ですが、こうしてみると時代感ありますね。2枚目は懇親会での集合写真。会場は今は取り壊されてなくなった労働会館です。懇親会には小学校の恩師O先生とY先生にお越しいただきました。
この頃は「未来は私たちの手の中にある」なんて思っていましたが、今は「・・・」笑。
例によって、素顔はコチラからパスワードを入力してご覧ください




訪問者18万人突破記念
訪問者15万人突破記念
訪問者13万人突破記念
訪問者10万人突破記念
訪問者8万人突破記念
訪問者5万人突破記念
訪問者3万人突破記念
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田熊村四国八十八ヵ所札所 不明だった3か所発見

2020年03月08日 | 令和2年因島・田熊・仲間の話題
昨年3月に田熊村四国八十八ヵ所札所を巡った際、たどり着けなかった五十四~五十六番札所を知人Oさんの案内で発見することができました。
前回は呉田池の東側の小道にある四十六番札所分院から登って五十四、五十五、五十六番札所を目指しましたが、全く道がなくなっていて断念。引き返して保育園近くの三角寺から上り五十七番札所をお参りしてから、上方からチャレンジしましたが、こちらも途中で道が途切れて進むことができませんでした。
以前Oさんにその旨を話したとき「その道はワシの実家から中学校への通学路じゃった。確かに札所があったわい」と聞いていました。今日「あんたが、あ~よったけぇ、行ってみたんじゃ。今ならまだ草木が枯れとるけぇ通れるで。長靴履きないよ」とのことで早速案内してもらうことに。。(やや長編です)

先ずは、前回同様、呉田池東側の四十六番札所分院から進入




田熊こども園を眺めながら進みます


確かに以前来た時より草木が少ないようです。前回はこの先で断念しました。


五十六番札所発見


思った以上に道が良いと思ったのはここまで。足元も悪く、草木をくぐりながらの前進です。
右に行くと旧中学校へ行けるそうです。
Oさん「この道通って行きょうたんで。昔はもっと道がはっきりしとった。鐘が鳴り始めて家を出ても遅刻せんかった」(そりゃウソでしょ)
目指す札所には左へ進みます。


屈強なOさんはどんどん進んでいくのでなかなか追いつけません


Oさん「あんた山には向いとらんの~笑」
判ってますとも笑・・・







一度見てみたいと思っていた「心中場池(しんじばいけ)」も発見。鬱蒼としていますのでわかりにくいですが。。
この辺りは字"大将軍(だいしょうぐん・だいじょうご)"
この池も「大将軍池」と呼ばれていたはずです。
名前の由来もそのうち調べてみたいと思います。
「因島市建設計画書」(昭和34年)には、面積:992㎡、平水量:1.900㎥、最大水深:(増水期)8.10m(渇水期)0.90mと記載されています。
これで田熊町にある、池をコンプリートです♪(瀬川池、呉田池、安土池、金栗池、埋め立て廃止の鷺田池)。



頑張って進むと竹林が
Oさん曰く「ホンマの道は崩れて通れんけぇ、こっちを進むわ」
どこからホンマの道でなくなったのか、全然気づきませんでした。
なので、ここは道ではありません(ホンマの道は画面右側の方になります)。


ひたすら進むと五十五番札所


モノラックのレールが残っていました。
Oさん「この辺はミカン植えとったけぇの」
現在はその面影はありませんね。


無人の民家の傍を抜けて


五十六番札所
これで田熊村四国八十八ヵ所札所もコンプリートです。


もうすぐコール。振り返ってみました。


ようやく一般道が見えてきました。


一般道の入り口から振り返ってみました。
Oさんは「ワシはもう一回下って帰るけど、アンタはそのまま普通の道で帰りんさい」
言われなくてもそのつもりでした(笑)。。。

直線距離だと200m程ですが、結構なお遍路旅でした。案内してくれたoさんありがとうございました。

※令和2年3月13日 加筆修正しました。
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出来屋重太の話(田熊村直訴事件)

2020年02月24日 | 令和2年因島・田熊・仲間の話題

田熊村を飢餓から救った義人、出来屋重太(できやのじゅうた)のお話。(やや長編)
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江戸時代、飢饉が田熊の村を襲いました。窮状をみた広島藩はお助け米(御救米)を庄屋に届けましたが、庄屋がお助け米を出し惜しんで配らないので、村民の窮状はますますひどくなりました。そこで奮起したのが長沢(現在の中区)に住んでいた出来屋重太です。17歳の重太は「よし、ワシが藩に直訴してやる」と決意し、浄土寺の住職に頼んで直訴状をしたためてもらい、田熊の浜(現在の中央区奥浜付近)から、単身船を漕いで出発しました。
驚いたのは庄屋です。なにしろ直訴は重罪です。もちろん庄屋にもお咎めが及びます。庄屋は慌てて重太の船を陸伝いに追いかけました。ようやく追いついたのが村のはずれ(現在の竹長区・因島南インターバス停付近)てした。
庄屋は重太に向かって「おい重太、直訴は重罪なるぞ。思いとどまるなら、お前に米を"八石"やろう」と叫びました。
しかし、重太は「今更なにを言うか」と言い残し北へ船を漕ぎ続け、とうとう藩への直訴に成功しました。
おかげで無事に米が配られ、村民は飢餓を脱することができました。庄屋は交代させられました。
そして厳しい沙汰を覚悟した村民と重太に届いたお達しは
「かくかくしかじか、いついつまでに、身支度整え出頭せい」という内容でした。
そこで村民は考えました。
そもそも厳しい御沙汰を下すなら、直訴の際に捕らえられたはず。それを一旦村に戻してからのお達しは、「所払いで許してやろう」という藩の恩情ではないか? と考え、村民は重太にしっかりとした旅支度をさせて盛大に島を送り出しました。
その後の重太がどうなったか誰もわかりませんが、時が流れ「重太も今頃は60歳くらいだろう。どこか異国の地で既に亡くなっているかもしれん」と重太を弔う機運が高まり、浄土寺に墓が建立され法要が営まれました。以来、田熊の檀家では全国でも珍しい六十回忌法要の風習が定着しました。庄屋が重太に追いついた村はずれの浜は、竹長区字"八石(はちこく)"として現在も残っています。

◆直訴事件の考証
管理人が幼いころ祖母から聞いた話と文献を元にお話にしてみました。管理人の記憶と資料とで違いがありますが、長年伝えられていくうちに、変遷していった部分もあるでしょう。
しかし、浄土寺に重太の墓が残されていること、前述の田熊独特の六十回忌法要や字"八石"の存在から、直訴事件があったことは確かだと思います。

では、いったい事件発生はいつだったのでしょうか。
重太の墓の正面には"清光了雲信士 安永四年三月十四日"とあり、左側面に"義人 出来屋重太之墓"と刻まれています。普通に考えれば、この"安永四年(1775年)"が重太が"一応六十歳で亡くなった"とされ法要が営まれた年でしょう。ということは、重太が事件発生時17歳だったということを正とすると、享保十七年(1732年)ころということになります。この年7月には「享保の大飢饉」が西日本を襲い、「広島県史」によると、翌春までに広島藩8644人、福山藩731人が餓死、11月と翌年5月には広島藩から救援米が支給され、12月には囲米戒めの通達が出ています。
なんとなく真実味が増してきた感じがありますね。管理人は「享保の大飢饉」説を採用したいと思います。因みにこの時の8代将軍徳川吉宗は飢饉の影響を考慮して東国米の西国輸送を認めています。

「いんのしまの民話と伝説(因島ジャーナル社)」では「天明の大飢饉」(天明2年~8年・1782年~1788年)の頃の出来事と記載されています。「広島県史」によると天明5年~6年に被害が大きかったようで、天明6年には福山藩で一揆も起きていますが、墓に刻まれた内容とは整合性に欠ける感じがします。

また、「田熊の文化財第17巻(田熊町文化財協会)」では、宝暦三年(1753年)と五年(1755年)に備後地区(福山藩)で窮民蜂起の記録があることから、状況は広島藩の因島でも同様ではなかったかということで、事件はこの時期ではなかったかと推測しています。となるとやはり墓碑命日との整合性が気になりますが、時の流れが緩やかな時代ですから、事件から20年ほど経って適当なところで法要を営んだということかも知れませんね。

それから、藩からお咎めを受け交代した庄屋も気になります。
寛文年間(1661年頃)に田熊村上氏の祖である村上四郎左衛門に代わって、分家筋の大田熊(おだくま)が6代に渡って庄屋を務めていますが、その6代目の庄左衛門が亡くなったのが安永六年(1777年)で、既に安永三年(1774年)時点での田熊の庄屋は宮地源蔵との記録が残っています。5代目の瑠右衛門は延享三年(1746年)に亡くなっていますから、事件の発生が管理人が唱える「享保の大飢饉」(1732年)でも文化財協会が掲載している宝暦三年(1753年)又は五年(1755年)でも、事件時の庄屋は6代目庄左衛門と考えて妥当でしょう。
事件に連座して交代(罷免)させられた庄左衛門は、失意のうち永眠。しかし晩年の庄左衛門は悔悟の念から重太法要の音頭をとった、とするシナリオは出来すぎでしょうか。出来屋重太の物語だけに。。。

いまさら真実にたどり着くことは不可能ですが、身近な郷土の歴史ロマンに想いを寄せてみました。。。

参考文献
「田熊の文化財1・5・17・19・24巻(田熊町文化財協会)」
「いんのしまの民話と伝説(因島ジャーナル社)」
「広島県史(広島県)」


田熊町竹長区八石から生口橋を望む

重太が暮らしていた中区長沢への入り口(旧田熊中学校近くから)

進んでいくと右手に上ります

イノシシ除けの柵がしてありました。子供の頃には行けたのにね。。この先に金毘羅大権現が祀られておりその辺りに暮らしていたようです。

※令和2年3月19日 加筆修正しました。
※令和2年4月8日 加筆修正しました。
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ちょっとランチ会

2020年02月02日 | 令和2年因島・田熊・仲間の話題
ちよりちゃんのお店でランチ会。
渾身の(?)自慢の(?)工夫満載の(?)、創作料理がズラリ。
食事を楽しみながら会話も弾み、あっという間に3時間以上の長居となってしまいました。
いろんな食材と料理のラインナップをレポートできれば良かったのですが、おしゃべりに夢中で。。。。
ご馳走様でした♪
素顔はコチラからパスワードを入力してご覧ください。




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市道 弁才天・下樫平線

2020年01月26日 | 令和2年因島・田熊・仲間の話題
因島には国道や県道だけではなく、市道もたくさん存在します。
「弁才天・下樫平線」(ベンザイテン・シモカゼヒラ)は、東区の弁才天社から安政柑発祥の碑付近(下樫平)まで通じる350mほどの細い道です。
今回は安政柑発祥の碑がある下樫平(シモカゼヒラ)から出発しました。
上樫平・中樫平・下樫平があり、上樫平はこの先からさらに上がってお寺の東側付近になります。
樫平は田熊農業発祥の地とされています。



すぐに道が細くなりますが、これでも立派な市道です




少し道が広くなりました




なんとか車も通れそうですね


少し下り


弁才天社の裏側に出ててきました


終点
弁才天社にお参りしました
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市道 上細田・金栗線

2020年01月26日 | 令和2年因島・田熊・仲間の話題
因島には国道や県道だけではなく、市道もたくさん存在します。
「上細田・金栗線」は、東区の島四国五十九番札所国分寺付近(上細田)から金栗池を囲むように通じている200mほどの細い道です。

安政柑発祥の碑から少し上がっていきます


振り返ると金栗池


島四国五十九番札所国分寺(田熊村四国十一、十二、十三番札所も合祀されています)


鋭角に曲がった所から市道「上細田・金栗線」です




すぐに狭くなりますが、これでも立派な市道です


鍛冶後(カジガセド)方面を望む




この辺りは舗装されていますね


ゴール


この先に安政柑発祥の碑があります(右の土手の上が金栗池)
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令和2年同窓会開催しました

2020年01月03日 | 令和2年因島・田熊・仲間の話題
穏やかな天候に恵まれ、同窓会を開催することができました。

画像は加工しています。素顔はコチラからパスワードを入力してご覧ください。

まずは旧田熊中学校に集合。ちらほらと集まったころシルバーカーに乗った柏原先生に遭遇。
「先生、写真撮ろうや」ということでまず1枚。


旧中学校の建屋は私たちの時代のものとは異なりますが、中庭などを見学して旧田熊小学校へ。校舎があった場所をぐるりと巡って、唯一残る体育館前で集合写真。懇親会場へ向かいました。


懇親会場には「祝五年前還暦」の看板。実は「五年前」の部分は後から書き足したそうで。。。




二次会はちよりちゃんのお店に移動。ここから合流した人もいましたよ。


その後も残党部隊(笑)による三次会、四次会と続き楽しい時間を過ごしました。
懐かしい話に旧交を温め、現況を語り合いながら、"一応"還暦の話も少しだけ。。引き続き、みなさんよろしくお願いします。

画像は加工しています。素顔はコチラからパスワードを入力してご覧ください。

1月5日加筆修正しました。







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明けましておめでとうございます

2020年01月01日 | 令和2年因島・田熊・仲間の話題
新年明けましておめでとうございます。旧年中は当ブログに多数お越し下さりありがとうございました。本年も引き続きよろしくお願い申し上げます。
管理人は大晦日から元旦にかけて、お宮の社務所でお守りや熊手、弓矢などの頒布を奉仕させて頂きました。おかげで深夜のなこちんに遭遇できました(笑)。
元日は、としぃ、Yasuji、とっさん、えりちゃんにも社務所で会う事かできましたよ。
「毎度あり!」じゃなかった「よくお参りくださいました」
私たちにとって、ほんの少し前(?)の出来事だった41厄年の皆さんも張り切ってもちつき大会を催して下さいました。1学年60人ほどの学年ですが、来年の当番回生も10人くらい参加してくれていました。うれしいですね。
画像2枚目は厄年の皆さんの集合写真です。この後は同窓会で楽しむことと思います。
私たちも明日は同窓会。皆さんよろしくです。

素顔はコチラからパスワードを入力してご覧ください。




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