ヤーホ、こんにちは。

日々思うこと、笑顔を忘れずに。

寄り日

2011年08月26日 16時59分16秒 | Weblog

きょうは団地と三輪野江クラブの老人福祉センターの寄り日だった。

10時半頃よりカラオケで演歌を歌いだした。新曲を唄う人、懐メロを歌う人それぞれだったが、楽しみながら唄うことがいいと思う。

高齢者の集まりであり、後期高齢者と言われる人たちが半数を占めていることを思えば懐メロを唄う人があってもいいのではないだろうか。それはそれなりに情感があって良かったと思う。

私は三山ひろし、の「人恋酒場」と「櫂」香田 晋・原田ゆかりの歌を、Kさんと唄った。

洗濯物を干してあったので、空の雲行きがおかしくなった事から2時半頃帰ってきた。おかげで洗濯物をぬらさずにすんだ。

家に着いてから間もなく雷が鳴り雨が降ってきた、よかったと思う。


カラオケレッスン

2011年08月23日 08時33分50秒 | Weblog

きのう「すまいる」で千代田優子先生からカラオケ「木曽恋い三度笠」のレッスンをして頂いた。

40台の若い先生でピアノを引きながら歌ってくれる、プロ歌手でもありいい声をしている。容姿もきれい、30分とことん教えてくれる。ありがたいと思っている。

教えられた曲をテープに撮ってきたので、自宅でも教えられた気持ちで唄えるのでしっかり練習して次に備えたい。

10月に先生の新曲発表会が「さわやかちば県民ブラザ」で行われる。その時に我々生徒の歌の発表も行われることになっている。

それだけに先生も我々も現在真剣に歌の練習に取り組んでいる。

 

 

 


小さな旅・暑気払い

2011年08月22日 07時31分12秒 | Weblog

きのう小さな旅の会の定例会で、暑気払いを福祉センターで10時から15時まで行った。  会費は500円の弁当代だけだった。

この日の受付で、9月に計画している「わたらせ渓谷と足尾銅山」への旅の会費7500円を納めた。足尾銅山の見学はトロッコ列車に乗って行うようなので、銅山の過去の歴史がそままよみがえるもののようだ。

14日午前8時おあしす出発とのことで、朝も早くなく丁度いい時刻のように思える。

そして今日の暑気払いカラオケが中心になっているが、一味違ったものだった。私たち新人はそのままの姿でのカラオケだったが、ベテランさんは仮装してのカラオケで最初は誰なのか分からなかった。

特にデユエットでの出演者は仮装してのカラオケなので、意外と大胆な表現もあり楽しみも倍加していた。さすがに役者が揃っているなナァ・・・・・と感心した。

一日を楽しませて頂いて、明日?(今日)への活力になると感謝している。


将棋カラオケ

2011年08月07日 19時16分00秒 | Weblog

きょうは将棋クラブ主催のカラオケだった、熱いので老人福祉センターに行き皆さんと一緒にカラオケでも歌っていれば気はまぎれるだろうと思いながら行く。

総勢20数名、やはり熱いせいか集まりが悪い。

将棋主催と言うこともあって、やや男の方が多い。それでも女性が入ると場が保たれる、そして穏やかになる。

舞台に近く三分の二ほどの席はカラオケで、三分の一ほどの後方の席が将棋盤を囲んだ人たちの席となっていた。

朝9時から午後3時半まで、カラオケは3番まで歌って100曲を歌いきる目標だったがわずかに届かなかった。

人さまざまと言うが、新曲だけを唄う人。懐メロ中心の人それぞれだった。

よくも新曲だけ歌えるものだと感心させられる人、どこでどうして覚えるのだろうと思う。   懐メロは私も時々唄う、また誰でも歌える歌には違いないと思う。

歌は世につれ、世は歌につれ・・・・・・愉快な時も、哀しい時も、嬉しい時も、くちをついて出るもののようだ・・・・・・不思議ではないだろうか。


半月お休み

2011年08月03日 10時00分06秒 | Weblog

ブログを半月休んでしまった、何とはなしに書くこともあまりなかったこともあってのことだった。この間に二つの文章をまとめたことが唯一の収穫と言えるかもしれない。

一つは「団地のそれから」田無からこの団地に移り住んでからのことを簡単にまとめたものだった。

もう一つは「彼方へ(二)」いずみ36号に書いた「遥かな彼方へ」の続編ともいうべきものだった。戦争の時代に生きた私たちの思いをつずったものだが、戦争に導いた人たちへの批判を書いたつもりだった、その資料に使ったには「東京裁判」だった。

なんであんな戦争をしなければならなかったのか? 戦争指導者に憤りを感じている。

そして敗戦、塗炭の苦しみを味わったのはほかならない我々の父母であったり我々の年代の人たちではなかったろうか。忍びがたきを忍んで耐えたのは父母であり我々だった。

東京裁判がそれなりの結論を出してはいるが、十分とは言えないように思える。

敗戦直後の東久邇宮首相が「一億総ざんげ」などと言ってからは戦争責任の追及も弱まったように思えた。

戦争責任を問われ、断罪された東条以下25人にとどまらないのではないだろうか? 本当の意味での戦争責任を問われる人はまだまだいるように思える。

これらの二つの文章は私たちの文集「いずみ」38号に載せるつもりでいる。