ヤーホ、こんにちは。

日々思うこと、笑顔を忘れずに。

全国高校駅伝

2011年12月26日 15時59分50秒 | Weblog

きのう都道府県47のチームが競う高校駅伝が京都で行はれ、男子は7区間・42、195キロ。女子は5区間21、0975キロのコースで行はれた、大会の結果は次のようになる。

女子の1位は・豊川(愛知) 2位、興譲館(岡山) 3位、仙台育英(宮城) 4位、須磨学院(兵庫) 5位、立命館宇治(京都) 6位、白鵬女子(神奈川) 7位、成田(千葉) 8位、長野東(長野) 9位、大阪薫英女学院(大阪) 10、位筑紫女学園(福岡) 11世羅(広島) 12常盤(群馬) 13山梨学院大付(山梨) 14青森山田(青森) 15神村学園(鹿児島) 16鳥取中央育英(鳥取) 17山形城北(山形) 18田村(福島) 19小林(宮崎) 20諫早(長崎) 21奈良育英(奈良) 22須磨拓陽(栃木) 23埼玉栄(埼玉) 24山田(高知) 25大分西(大分) 26森岡女子(岩手) 27茨城キリスト(茨城) 28順天(東京) 29鯖江(福井) 30富山商(富山) 31新潟明訓(新潟) 32札幌静修(北海道) 33大曲(秋田) 34星稜(石川) 35平田(島根) 36文徳(熊本) 37笠田(和歌山) 38八幡浜(愛媛) 39津商(三重) 40三島北(静岡) 41大垣日大(岐阜) 42草津東(滋賀) 43鹿島実(佐賀) 44美馬商(徳島) 45西京(山口)46ゴザ(沖縄) 47観音寺中央(香川)                                   ☆豊川(愛知県豊川市)1928年、曹洞宗の寺院である豊川稲荷を母体に夜間中学として開校。女子駅伝部は創部2年目の07年に都大路に初出場すると、翌年から連覇をはたした。

男子第62回高校駅伝競走大会成績  1位、世羅(広島) 2位、倉敷(岡山) 3位、九州学院(熊本) 4位、西脇工(兵庫) 5位、青森山田(青森) 6位、豊川工(愛知) 7位、浜松日体(静岡) 8位、東農大二(群馬) 9位、鳥栖工(愛知) 10位、小林(宮崎) 11伊賀白鵬(三重) 12仙台育英(宮城) 13佐野日大(栃木) 14大分東明(大分) 15埼玉栄(埼玉) 16八千代松陰(千葉) 17中京(岐阜) 18洛南(京都) 19鯖江(福井) 20水城(茨城) 21佐久長聖(長野) 22和歌山北(和歌山) 23鹿児島実(鹿児島) 24山梨学院大付(山梨) 25藤沢翔陵(神奈川) 26富山商(富山) 27西京(山口) 28一関学院(岩手) 29札幌山の手(北海道) 30東京実(東京) 31花輪(秋田) 32大牟田(福岡) 33智弁学園(奈良) 34中越(新潟) 35酒田南(山形) 36滋賀学園(滋賀) 37出雲工(島根) 38関大北陽(大阪) 39美馬商(徳島) 40遊学館(石川) 41学法石川(福島) 42松山工(愛媛) 43高知農(高知) 44鳥取城北(鳥取) 45尽誠学園(香川) 46諫早(長崎) 47ゴザ       以上になる。

 

 

 

 


金正日氏の死去

2011年12月21日 10時45分52秒 | Weblog

19日の新聞報道によると北朝鮮の最高指導者 金正日(キムジョンイル)朝鮮労働党総書記・国防委員長が17日午前8時半、現地指導に向かう途中、急病のため死去したと報じた。69歳だった。

その後の報道を見ると、金正日氏の三男・正恩(ジョンウン)氏が後継指名された。

北朝鮮が今後どの方向に動くかわからないが、しばらくは静観するよりないだろうと思はれる。

新聞の報道などを見ると、国内の疲弊はかなり厳しいとされているように見える.民政の安定が、まず求められるのではないだろうか。

28歳という若さから、集団指導体制がささやかれているようだが、どんな体制がとられるのか? 見守りたい。


開戦70周年

2011年12月08日 17時14分56秒 | Weblog

昭和16年12月8日(1941年)この日から今日で70周年になる。けたたましい軍艦マーチに起こされた、いつもとは違う雰囲気の何か?と息をのむ。私は小学校6年生だった。

本日、未明わが帝国陸海軍は、米英に対して戦闘状態に入れり・・・・・。というラジオ放送に驚いた。

そしてアメリカの真珠湾を奇襲攻撃をおこない、戦艦〇〇、巡洋艦××を撃沈、米国太平洋艦隊に壊滅的損害を与えた・・・・・。インド支那海に於いて、英国の連合艦隊プリンス、オフウエルスを撃沈、・・・・・。など、軍艦マーチとともに戦果を発表していた。

幼心にも日本は大丈夫か? 勝てるのか? そんな危惧を感じた。ラジオは特番で勝った勝ったの一色だった。町でも祝賀会、提灯行列で一日が暮れる。

陸軍も早々に仏領インド支那を占領、シンガポールを攻撃・占領する。物資の乏しい日本が資源を求めて南方に転進することは、最初からの計算ではなかっただろうか。

しかし勝った、勝ったとハシャイタのも、わずかに半年だった。その後は敗戦につぐ敗戦だった。ガダルカナルが激戦の末落とされるや、食料や物資の補給が経たれた陸軍部隊は敗走につぐ敗走を続け、痛ましい状態が続けられていた。

開戦から3年8ヶ月、ソ連の参戦により、ついにお手上げ敗戦。食うや食わずに戦争に強制的に従はされてきた国民はみじめでしかなかった。

この太平洋戦争へ導いた者たちへの怒り、戦争責任を軍人だけに押し付けた者への怒り、今なお沸々とたぎっている。忘れようとて忘れられない、怒りが込み上げてくる。