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南英世の 「くろねこ日記」

東京招魂社(靖国神社)

半藤一利の『靖国神社の緑の隊長』を読んだ。この本は、著者が1960年に全国を駆け回って旧帝国陸海軍の将校や兵士に会い、聞き出した体験談8篇をまとめた本である。以下印象に残った話をメモとして記す。

 

 そもそも靖国神社とは、「東京招魂社」という名前で明治2年(1869年)につくられた。目的は、幕府を倒すために死んでいった薩摩や長州の勤王の志士の魂を慰めることにあった。彼らの多くは脱藩していたため、その霊が生まれ育った故郷に帰ることができずに行く当てもなくさまよっていると考えられたからである。

明治5年(1872年)に徴兵制がとられると、「天皇の軍隊の一員として戦死したら、靖国神社に神様としてまつられる」という仕組みが作られ、1879年(明治12年)には『靖国神社』と改められた。天皇の軍隊の戦死者をまつる神社であるから、戊辰戦争で徳川側についた人や、戦争で犠牲になった一般の国民はまつられていない。

1978年(昭和53年)、靖国神社にはA級戦犯もまつられた。これ以降、靖国神社は政治的な意味を持つ施設となってしまった。昭和天皇は1975年までに靖国神社を8回参拝したが、A級戦犯が祀られてからは参拝をやめてしまった。昭和天皇はA級戦犯をまつることに不快感を抱いていたようである。

 

軍旗を守れ

 軍旗(連隊旗)はたとえ命と引き換えにしても守るべきものとされた。ガダルカナルでアメリカ軍に完全に包囲され絶望的な抵抗を続けて3か月。250人余りの兵士の雑嚢(肩から掛けた布製の鞄)には、もはや人間の食べ物らしいものは何もなかった。青い苔、ミミズ、トカゲ、ゲンゴロウなどの腐りかけた屍骸が大事に保存されていた。身に着けていたシャツと半ズボンはもう元の形をとどめていない。ボロがわずかに体にへばりついているだけでほとんど裸同然であった。ほぼ全員が裸足である。小尾(おび)少尉は軍旗を腹に巻いてかろうじて生き延びたが、生きて帰ったのは彼ひとりであった。ガダルカナルでは陸上だけで2万2千人が死んだ。戦死者の7割は餓死だったといわれる。

 

特攻

 自らの生命と引き換えに攻撃する特攻。その命中率はいかほどであったか。せいぜい3パーセントかそれ以下だったそうである。特攻はあくまで「本人の志願」によるものとされ、「軍による強制的な命令ではない」とされた。しかし、軍隊という組織の中で「志願者は手を挙げよ」と言われて手を挙げなければ「卑怯者」の烙印を押される。事実上の強制であった。

 

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